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左足でカウンターを操った「芸術家」──ハジ

 優勝候補のコロンビアを葬り、開催国の米国を押さえ、「大国」アルゼンチンを倒したルーマニアの快進撃は、94年米国ワールドカップの驚きの一つだった。その効果的なカウンターを生み出したのがゲオルゲ・ハジだった。「カルパチアのマラドーナ」いわれるように、彼の左足は数々のビューティフルゴールを生みだしたのだ。


コロンビア戦での驚き

 うーん、と思わずテレビの前で唸ってしまった。94年6月18日、ニュージャージーのジャイアンツ・スタジアム。16時キックオフの一次リーグE組でイタリアが0-1でアイルランドに敗れたのもショックだったが、同スタジアム内のプレスルームのテレビに19時30分から映し出された、西方4470キロのロサンゼルスで、コロンビアが圧倒的にボールをキープしながらルーマニアのカウンターに屈した試合も、また予想外の結果だった。

 ペレをはじめ、多くの専門家やメディアが推奨するコロンビアだが、もちろんウィークポイントはあった。だからこそ、最も南米らしい雰囲気を持ち、私の好きなチームでありながら、とても優勝候補に推せなかった。しかし、ルーマニアの守りとカウンターがこれほど効率よく運ぶとは考えられなかった。

 ルーマニアは、この第1戦で自分達の戦略が十分に檜舞台で通じることを確信したはずだ。16分に決まったラドチオウの先制ゴールは、その自信を深めた第1弾だった。

 試合開始後、ほとんどコロンビアがボールをキープし、ルーマニアは厚い守りで防ぐという展開だった。彼らは、今流行のフラット4ディフェンスではなく、ベロデディチがリベロを務め、プロダン、ミハリをセンターに、右にペトレスク、左にムメテヌーを配する5人の守備型を取っていた。更に、中央にはポペスク、ルペスクの2人の守備的MFがいるという堅実さ。

 その堅い守りで奪ったボールをハジにつなぎ、ここからドゥミトレスクとラドチオウの突破力を生かすのが狙いだ。

 コロンビアはこのカウンターを警戒し、両サイドからの攻めを手控えた。リンコン、バレンシア、アスプリージャの3人と、バルデラーマの多芸がいかに上手く絡み合っても、中央に偏る攻めでは、ペナルティエリアには侵入できても、なかなかシュートを叩き込むまでには至らない。

 最も、いくら守りに人数を割いても、絶えず圧迫され防戦一方になると、大抵は守備ラインが交代し、マークがズレてくる。だが、そんな守りの破綻をカウンターで勇気づける、ラドチオウの先制点はルーマニアにとって、後々どれほど心強かったことか。

 この得点は、ハジが左前のラドチオウにパスを送り、ラドチオウが2人のDFを外して右足でシュートを決めたもの。これは、(1)コロンビアのCKをルーマニアがDFとMFとでボールを回した後、(2)ゴメスがバレンシアの足元へパス。(3)それをムメテヌーが潰して、そのままボールがハジの方へ転がった。(4)ハジはこのボールを受けるときに、巧みなフェイントでゴメスをかわし、(5)すぐ左前のオープンスペースへパスを送る。

 このように粘り強い守りから、ボールがハジへ出てきたところが第1ポイント。そしてハジが落ち着いてゴメスをかわしたのが第2ポイント、ハジがラドチオウに突進できるパスを送ったのが第3ポイントだった。

 ルーマニアの2点目は、ハジのピンポイントのミドルシュート。左タッチライン寄りのFKに、誰もが味方へのパスか、あるいはゴール前へのロビングボールを予測した。しかしハジは短い助走から、GKコルドバの頭上を越え、右上隅いっぱいに入るシュートを成功させる。コルドバが相手FWのヘディングとの競り合いを予想し手前に出ようとした、その裏を突いたものだった。

 彼のようなプレー・メーカー、1本のパスで相手の守りを砕いてしまうことのできる選手は、自分の意図を上手く仲間に知らせることができる。ルーマニアの3点目、89分のラドチオウのゴールはまさに、それだった。

 1-2から同点に持ち込もうというコロンビアの攻めを防いで、タイムアップ間際となった頃、ハジは自分のドリブルに対する反則で、ハーフライン近くの左寄りでFKを得る。キックのコースを妨害しようと近くに立つアルバレスに背を向けた彼は、後ろへボールを渡すのではなく、ゆっくり体の向きを変え、前向きとなった。

 その時、チームの最先端、オフサイドの位置にいたラドチオウはオンサイドに戻り、それから前へ出る構えをした。この瞬間、ハジの左足がボールを叩き、ラドチオウは一気に飛び出してDFを置き去りにし、コルドバをかわして3点目を決めたのだった。

 単なるキックの技術だけでなく、試合の流れの中で相手の読みを誤らせる間の取り方、更にラドチオウとの間に意図が通じているところに、ハジの凄さがあった。


「カルパチアのマラドーナ」

 1965年2月5日生まれのハジは、このとき29歳。2度目のワールドカップだった。黒海のリゾート地コンスタンツァに近い小さな村で育った彼は、13歳でコンスタンツァFAの少年チームに入り、15歳でルーマニアのユースに選ばれる。そして17歳でコンスタンツァの1軍に入り、1部リーグに出場した。

 次の83-84シーズンから、首都ブカレストのスポルトル・ストデンテス・クラブに移った。首都を2分するステアウアとディナモの2強からの誘いは強かったが、彼はスポルトルでじっくり腕を磨きたかった。

 ステアウアは85-86シーズンに欧州チャンピオンズ・カップに勝ち(86年12月トヨタカップに出場)、87年2月にディナモ・キエフ(ソ連)とスーパーカップを争うことになったとき、スポルトルからローン契約でハジを借り受けた。彼は期待に応えて唯一のゴールを挙げ、ステアウアはディナモ・キエフを破った。

 これ以後、ハジはステアウアの一員となる。ソ連に対するチャウシェスク(当時大統領)の対抗意識が、こうしたローン契約という偽りの形を取っても、ハジをチームに加えることになったのだが、それだけ「カルパチアのマラドーナ」ハジの能力に魅力があったといえる。

 そのチャウシェスク政権が倒れると、90年のイタリア・ワールドカップ以降、ルーマニアの選手は海外へどんどん出て行くようになり、ハジは、スペインのレアル・マドリーへ移った。その2年後、92-93シーズンからはイタリアのブレッシアに移籍する。

 イタリア・ワールドカップでは好調とはいえず、東欧勢ではユーゴのストイコビッチ(現名古屋グランパス)の方が目立っていた。しかし、スペインとイタリアの経験はハジの力と自信を伸ばそうとしたように見える。


歴史を築いたアルゼンチン戦

 強敵コロンビアを倒した後、スイスには1-4で大敗したが、次の相手・米国には1-0で勝った。この唯一のゴールは、素早いカウンターからラドチオウが左サイドを突破して生まれたもの。そして、彼を走らせたのが、またもハジのパスだった。

 二次ステージ1回戦のアルゼンチン戦の勝利は、まさにルーマニア・サッカー史でも特筆すべきものだ。

 左サイドのFKをドゥミトレスクが右足のカーブシュートで、GKイスラスの意表を突いて先制する。PKで同点にされたが、その7分後に、ハジの絵に描いたようなスルーパスをドゥミトレスクが決めた。

 同点にして勢いに乗るアルゼンチンが攻勢を続けていたが、(1)レドンドがドリブルで中央に攻め込むのをルーマニアDFがタックルし、(2)奪ったボールをルペスクにつなぐ。(3)このボールがペトレスクを経て右タッチライン寄りのハジに渡る。(4)ボールをキープし、エリア右角へゆっくり持ち上がるハジ。(5)中央を走るルペスクの後方からドゥミトレスクが上がってくる。(6)その時、ハジの左足から相手DFの間を通ってエリア内へパスが送られた。(7)GKが飛び出す間もなく走り込んだドゥミトレスクがダイレクトで蹴り込んだ。

 2点目のハジのパスがカミソリのような切れ味を見せたものなら、3点目はルーマニアのカウンターの速さと、その中でのタメの作りの巧さを見せたものだった。

 相手の左CKをヘディングでクリアしたところから始まり、ボールを取ろうとしたアルゼンチンの選手がバランスを崩したときに、ドゥミトレスクが奪い取る。反転し、ドリブルで一気に40メートル進み、追走する味方のセリメスが前進してコースを左斜めへ横切った。ドゥミトレスクが急停止して内側を向き、彼の右手側へ走り上がったハジにパスを送ると、ハジはダイレクトで右足シュートを決めた。

 準々決勝のスウェーデン戦は、88分まで0-1の劣勢だったが、エリア外のハジのFKからラドチオウが同点ゴールを決めた。彼のFKが相手DFのカベにあたり、転がったところをラドチオウが拾った。

 延長に入ってからの2点目もハジのFKから生まれた。相手DFはハジの強いシュートかロビングボールを警戒していた。その逆を突き、すぐ前のドゥミトレスクに短く緩いパスを送る。意表を突かれたスウェーデンDFはドゥミトレスクのボールを奪ったが、このボールがラドチオウに転がり、ラドチオウがシュートしたのだった。

 相手のミスによるゴールだったが、それを誘発したハジの判断に私は驚かされた。結局この試合はスウェーデンに追い付かれPK戦で敗れたが、ハジによって米国の観客は、サッカーの技術の面白さ、それに心理戦の駆け引きまで味わうことができたのだった。

 円熟した彼がバルセロナでどのようなプレーを見せるのか、今後も楽しみにしたい。

(サッカーダイジェスト 1994年12/14号より)

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