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アンダルシアの太陽とバスクの「最古」サッカー・スタジアム

6月14日(月)〜6月16日(水)セビリア〜マラガ〜セビリア〜ビルバオ


ラ・マルセイエーズ

 「マルション、マルション」腹の突き出たおっさんも、三色旗を持ったギャルソンも、胸の大きなマダムも、みんな誇らしげに歌っていた。

 1982年6月16日、ビルバオ氏のサン・マメス・スタジアムでの一次リーグ4組のイングランド対フランス戦。メインスタンドの中央から大分左に寄った私のプレス席のすぐ左側が一般席。キックオフ直前の両国国歌の吹奏で、まずフランス人の歌声が場内を圧していた。

 国際試合の始まる前の雰囲気は、いつも楽しい。郷土愛と、対抗心が歌によって高揚され、歌によってサポーターの心が一つになる。1830年のフランス大革命でマルセイユ市民軍が歌い、後に国歌として正式採用された「ラ・マルセイエーズ」は行進曲だから、勇壮で歌い易い。

 昭和の初めから宝塚歌劇の「モンパリ(我が町パリ)」などで馴染んでいる私も、つい、隣りにつられて歌詞を付き合うことになる。

 「ラ・マルセイエーズ」の次は「ゴッド・セーブ・ザ・クィーン」。バックスタンドから向かって、右のゴール後ろのイングランドの若者達が高唱する。試合の「応援」にはいささか荘重だが、彼らの張りのある声は、イングランドのこの試合に掛ける意気込みを表しているようだ。

 スタンドで揺れるユニオン・ジャックを見てから、ふと、開幕以来飛び歩いてきたスタジアムとその歌声を反すうする。


セビリアでのブラジル

 前日の6月15日には、地中海沿いの南部のマラガでスコットランド対ニュージーランドを観戦した。その前日はセビリアのブラジル対ソ連を取材した。

 そう、6月13日、バルセロナでの開幕セレモニーに感動した。そしてその後世界チャンピオン、アルゼンチンが老かいなベルギーの守りに手こずった挙げ句、一発のパスに沈んだのにショックを受けた。次の日の朝、バルセロナからマドリッドを経由してセビリアへ飛んだ。トレドをかすめて南下するマドリッドからの飛行コースは、グワダルキビール河流域の平野の景観が面白かった。オリーブとオレンジの土地だけあって、暑さは格別で21時キックオフの試合の後半にソ連の選手達は、ガタッと動きが鈍ってしまった。

 このブラジルの第一戦は、前半にディルセウを使うという、やや意外な構成だったが、後半にパウロ・イジドロが入ってから、ブラジルらしくなった。今年のブラジルは私には、ちょっとまともすぎて、もう少し攻めのときにイジドロのような遊びがあっても良いのではないかと思っている…。それはともかく、開幕戦で、狭い地域をこね回すアルゼンチンと、その技巧を、ファウルをも辞さない、厳しいマークをオフサイドトラップで困惑させたベルギー。いわば、爽快感に乏しい試合の後だっただけに、フィールドを大きく使ったブラジル対ソ連の攻め合いは久しぶりに一級のゲームを見る思いだった。

 77年にブダペストで見て以来のブロヒン(来日したときは故障していた)は、五年経って少し肉が付いたか、という感じだが、さすがに速い。7分に彼がMFを一人大きく抜いて次のレアンドロもスピードで振り切ったときには、スタンドはしばらくどよめいたものだ。ただし、その後ブロヒンがスピードに乗ろうとする前を押さえにかかった、ルイジーニョ達の守りも、また、ちょっとしたものだった。結局試合は、ソ連のリードをブラジルがソクラテスとエデルの会心のシュートで逆転した。

 強烈な太陽、街路に並ぶシュロの樹、亜熱帯的な風景は、ブラジルの黄色のユニフォームによく合っていて、アンダルシアでの彼らは、生き生きと見え、サンバとフラメンコは、兄弟のようだった。


マラガへの山越えバス・ツアー

 6月15日は、同じホテル・コンドルに泊まっている観戦ツアーの客がマラガへ行くというので、そのバスに乗せてもらう。大半がコロンビア人で、中にカリフォルニアから来たというご婦人もいた。

 往復六時間かかって、帰り着いたのは、午前一時。グワダルキビール河の流域から、低い山並みを経て、地中海側へ出る道は、オレンジ、レモン畑と岩山のコントラストが美しい。スペインへ来て、この国の山の多いのに驚いたが、その山々は、何処でも岩峰が目に付く。2日間の滞在では、アンダルシアの臭いを嗅ぐ暇もなかったが、人口60万のセビリアに「サンチュス・ピスフアン」と「ベニート・ビジャマリン」の二つのワールドカップ会場が用意されているのは、驚きだった。ピスフアンの方は、70,365人収容、ビジャマリンは4,7379人収容という。前者はセビリアFC、後者はレアル・ベティス・バロンピエに属している。「バロンピエ」というのは、スペイン語のフットボールのこと。殆どのクラブが英語からきた「フットボール」を使っている中で、ただ一つ「バロンピエ」を名乗っている。この二つのスタジアムの改築に当たって、クラブはそれぞれ膨大な金を借りているが、両方ともワールドカップで使うのは、二試合だけの贅沢さ。

 マラガの人口は45万。「ラ・ロサレダ」スタジアムの持ち主は二部リーグのデボルチボ・デ・マラガ。収容は34,938人。スペインでは、貧乏だと言われているアンダルシアの、スポーツ 施設の豊かさはGNP第二位の経済大国の記者も、考え込まざるを得ない。


最古のスタジアムのファステスト・ゴール

 6月16日、セビリアを早朝に発ち、マドリッド経由でやって来たビルバオは、ビスケー湾に面した港町で、工業都市という触れ込みながら、静かで美しい。フランス国境に近いサンセバスチャンからこの辺り一帯が、いわゆるバスク地方。今でも話されるバスク語は、学者の研究によっても、その起源はまだはっきりしないという。フランコ統治時代の強い中央権力で、標準のスペイン語が行き渡るようになっていたが、バスク語の教育も根強く残っている。

 バルセロナを中心とするカタロニアと同じように、地域意識が強いが、中に独立を目指す過激派もいて、テロや紛争を起こす。私の泊まったホテルに近い市庁舎には、武装警官が、テロの警戒に立っている。ただし、この大会中は、過激派もテロ行為を遠慮するとか。

 バスク地方は、スペインの中ではサッカーの先進地だった。1890年代にビルバオの英国人鉱山技師が持ち込んできたという。スペインで一番古いクラブ「アスレチック・クラブ・デ・ビルバオ」が1898年の創設。

 14世紀から発展し、19世紀に大きく栄えた町の豊かさと、バスク人の勤勉さが、このクラブから強力なチームを生み出し、1913年、今から70年前に、クラブは現在の地に自分達のグラウンド、当時としては破格のスタンド付きグラウンドを建設した。5万ペセタの予算で掛かったが、予想外に経費が出て、8月21日、竣工式とこけら落としの試合の後で、クラブ員に「総工費は89,061ペセタかかった」とアナウンスされたという。

 メインスタンドの屋根の上に付いているアーチから「カテドラル(大型堂)」と呼ばれるこの「サン・マメス」(正式名)の本拠地で、ビルバオは、1920年代にスペインのトップを走り、1929年リーグ創設から34年の6シーズンのうち、三度優勝(レアル・マドリッドが二回、バルセロナが一回)を記録している。

 ここしばらくは、リーグ優勝はないが、カップ戦には強く、依然としてレアル・マドリッドやFCバルセロナなどの超ビッグクラブに拮抗している(82年は四位)。サンセバスチャンのレアル・ソシエダと共に、バスク人の誇りとなっている。

 クラブ首脳がワールドカップの会場決定の際に立候補したのは、言うまでもない。41,000人の収容力は、大改造で47,392人と増え、シートは33,574人。それも全て一人掛けという、近代的なものになった。

 緑の芝生と東西南北全てに屋根の付いたスタジアムに感心しているうちに、ダ・シルバ・ガリード主審(ポルトガル)の笛で試合開始。キックオフのイングランドは、いきなり右へ回し、コッペルが突進した。そこで生まれたスローインからゴール前へボールが出て、フランスの守りの間を抜けたボールをロブソンが決めてしまった。

 開始27秒の「ファステスト・ゴール」だった。

 呆然とするフランス人。狂喜するユニオン・ジャック。その騒然たる空気の中で、私は英国人がサッカーを持ち込んだこの港町で、スペインで最も古い歴史を持つスタジアムで、ファステスト・ゴールを記録した因縁を思った。

 サッカーはあらゆる町に、あらゆる世界に入り込み、関わり合っているものらしい。

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