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エル・モリノン・スタジアムでドイツ国歌を久しぶりに聞いたが・・

6月19日(土)〜6月20日(日)セビリア〜オビエド、ヒホン

 ヒホン(GIJON)は雨だった。6月16日のビルバオは全く蒸し暑く、これがビスケイ湾側かと疑いたくなったが、四日後の6月20日、ビルバオから200キロ西のこの港町は、気温18度、前日までセビリアの30度に馴れた体には肌寒い感じもした。

 マドリッドを朝7時50分に飛び立ち、オビエド空港に8時50分着、ひっそりとした空港から、まず車でオビエド氏へ。ホテル・ラ・ヒラファは市の中心にある。

 フロントで手続きをしようとしたら、受付の美人に「フランス語はできますか」と聞かれる。そういえば建物は古いが部屋は明るく、窓や壁紙のデザインはフランス的でもある。ヒホンまでの27キロはバスが出ているというのでバス・センター、通称ALSA(アルサ)へ行く。雨中で道が分からなくなってスマートな巡査に尋ねるとスペイン語とフランス語と手振りで教えてくれる。

 どういう訳かオビエド・ヒホン間のバス料金は101ペセタと1センターボの端数が付いていた。

 ヒホンの会場は、エル・モリノン・スタジアム。市の北西部のイサベル公園にあって市の所有。レアル・スポルティング・デ・ヒホンのホームグラウンドとなっている。スポルティング・ヒホンは1905年創立、81-82シーズンは10勝9分け15敗で、一部リーグ18チーム中14位。クラブは公式試合のときにはこのモリノンを借りるが、市から10分ばかりのところに、サッカー場6面と、合宿所、体育館、マッサージ室などを持っているという。


西ドイツ対チリ戦

 さて、この日の試合は一次リーグ第二組の二回戦、西ドイツ─チリ。

 第一戦でアルジェリアに敗れた西ドイツがどんな状態なのか、誰もが知りたいところだ。

 17時15分のチリのキックオフで始まったが、いきなりリトバルスキーがスライディングタックルでキックオフ・ボールを奪いに行く。ああ、今日は、大分気合いが入っているな、と思いながら見ていると、今度はジュティーリケが相手のタテパスを取るときにボールを止めそこなう。やはりアルジェリアに負けたのが、響いて、張り切ってはいても、何となく固くなっているのだろうと思う。

 西ドイツのラインアップは、GKシュマッヒャー、DFがカルツ、シュティーリケ、K・H・フェルスター、ブリーゲルで、これはすでに馴染みのライン。MFはドレムラー、マガト、ブライトナー。ドレムラーは私には初顔。マガトはコパ・デ・オロで、ブライトナーは74年ワールドカップ以来。

 FWのリトバルスキーは、西ドイツに新しく出てきたドリブラーという触れ込みで、さすがに切り返しは、ちゃんと引き技になっていて、その後、どちらもサイドにも行こうとするところは一つの才能だ。CFのルペッシュは80年欧州選手権から、ルムメンニゲは余りにも有名で、私には1975年のバイエルン・ミュンヘン来日以来、感心のあったプレーヤーだ。

 9分にそのルムメンニゲが先制する。リトバルスキー、マガトと渡ってきたボールを軽いスイングでピシャッと蹴った。ゴール右下へ地を這うように飛んだボールはGKのセービングの下をくぐり抜けてネットに入った。

 このゴールで西ドイツの固さがほぐれ、細かいパスを繋ぎながら攻め込む。全体としてテンポがゆっくりしているので、もう一つ爽快感に乏しい。28分にカウンターで右へ振ったボールを左へ送って、ルムメンニゲを走らせ、彼がドリブルシュートへ持っていったのは、ルムメンニゲの西ドイツらしい、長い疾走のスピード攻撃だったが、それ以外は、大体がスローで、時折のダッシュで相手を外そうとしていた。

 後半13分にルムメンニゲのヘディングで2点目、これはFBのカルツとルムメンニゲのパスで前進した後リトバルスキーがよく狙ってルムメンニゲの頭上に合わせたものだ。

 その9分後、ルムメンニゲが3点目をネットへ。右から中へ、マガトとパスをかわして入っていきた彼がマガトからのパスを右足を真っ直ぐに押し出すようにして、アウトサイドで蹴った。低いコントロールキックを得意足のアウトサイドで蹴る見事なモデルだった。


「ユーバー・アーレス」

 この得点で、観戦中のオーストリア・チームが立ち上がり、引き上げ始めた。私の横にいたアルジェリアのベンモハメッド・カメル記者は「チリがもっと頑張らないと」と不満顔になる。西ドイツから大金星を上げたアルジェリアだが、必ずしも二次へ進出できる保障はない。西ドイツとチリの得点が開くのを見るのはカメル君には耐え難いところだろう。37分、後半後8分というところでラインダースが素晴らしいロングシュートを決めて4-0と開いた。数分前にリトバルスキーと代わって出ていた彼は、奥寺と同じブレーメンにいる。大柄で、ドタッとした感じもあるが、その代わり、力がすごい。

 4-0と聞いて、私が一番驚いたのはルムメンニゲが急にゲソーッとした感じになったことだ。それまで軽く動き、軽くボールにタッチし見事な技術者振りを見せていた彼が、立ち止まって動けなくなってしまい、自分の前を転がるボールにも足を出すどころか、立っているのもやっと、という感じだ。その背中を眺めながら、ここ三、四日の彼の心労を想像した。

 異常な今年の冬の寒さのため、ブンデスリーガの日程が伸びたこともあって、五月末まで西ドイツ代表選手はホームチームでの激しい試合を繰り返した。挙げ句、コンディショニングが不充分のままヒホンへ乗り込み、後進アルジェリアに負ける。二次リーグへ進むためには、三番目の相手オーストリアに勝つことと、二番目の相手、つまりこの日のチリに大差で勝つことが必要だった。どんなに優れた選手でも、体に故障のあるときは不安なものだ。増して自分が肉離れを起こし、ルベッシュ、ハンジ・ミュラーなどの仲間もまた故障であれば、主将ルムメンニゲの気は重かったに違いない。そんな疲れが4-0の安心感で吹き出してきたのだろう。

 大黒柱の調子が落ちるとチームの気分は沈む。ブライトナーに代わっていたマテウスのミスキックを奪われ、チリに1点を返された。

 タイムアップの笛を聞くと律儀なルムメンニゲは、ゴール後ろの西ドイツサポーターに手を振った。その一隅で若者達が「ドイッチェラント、ユーバー・アーレス(世界に冠たるドイツ)」を歌っていた。戦前から私たちの耳に馴染んだ、この荘重なドイツ国歌は、戦後は一番の歌詞「ユーバー・アーレス」を避けて、昔でいう四番目だけを歌うはずなのだが、戦後37年「世界に冠たる」を唱えるものも表れるらしい。

 そんなファンの喜びや記者会見でのデアバル監督のホッとした表情を見ながらも私は、何となく気が晴れなかった。


ルムメンニゲを見る

 その日の収穫は、ルムメンニゲのこれまでと違ったプレーを見たことだ。短いパスのやり取り、振幅の小さなスイングでの押さえの効いたシュートは、まさに絶品の趣があった。自分の所に来たボールを受け、前に向き直るか、バックパス、あるいは横パスを使うかでチームの攻撃の流れを作っていくが、その味方へ渡す短いパスのスピードがときに弱く、ときに強く、ときに柔らかく、臨機の緩急になっていること。 来日した7年前はドリブルの上手な若い選手という印象だった。78年のワールドカップでは不振の西ドイツで、ただ一人懸命に突破を図っていたのを思い出す。その頃は、右足アウトサイドでボールを扱ってのターンが主な武器で、一旦止まることが多かったが、80年ヨーロッパ選手権ではジグザグの走路で突っ切ってシュート態勢に入るか、あるいはラストパスを出していた。その半年後のコパ・デ・オロで西ドイツは勝てなかったが、彼のプレーは南米人にも驚きだった。

 そのルムメンニゲから、このチリ戦で別の味を見ることができた。かつてクラーマーしに聞いたところでは、真面目なルムメンニゲは若い頃から毎日自分の特別練習を欠かしたことが無いという。

 一人の攻撃プレーヤーがそうした努力を積んで高いレベルへ上がっていく過程を、ビッグなタイトルマッチを通して見ることができるのは楽しいが、私にはルムメンニゲに長い疾走の回数が少なくなっているのが気になった。

 大技から出発したプレーヤーが小技も加えた最盛期のヒノキ舞台で、自分の基調である大技を発揮できない不幸、同時にそのルムメンニゲを大黒柱としている西ドイツの不運(すでにシュスターという才能を膝の手術のために欠いている)が残念だった。短いパスと長いパス、遅攻と速攻、ピアニッシモとアレグロ、ある時期優れた交響曲にも似た高度なエンターテイメントの西ドイツ代表のサッカー、キーガンが欧州流にも南米流にもやれるといった西ドイツの攻撃展開は、この日のチリ戦からは望むことが難しいように思えた。オビエドへの帰途、雨が再び路上を濡らすように、私の心の湿りは、拭うことができなかった。

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