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マラドーナを見た後町中はフォゲレスと呼ぶ祭りのピークだった

6月23日(水)〜6月25日(金)マドリッド〜バレンシア〜アリカンテ

 列車はゆっくり田園地帯を南下していた。「これでともかくアリカンテに行けるな」

 1982年6月23日、朝マドリッドからアリカンテへ飛ぶ予定だったのが、マドリッドの空港へ着いたときは登場締め切り時間を過ぎているとかで受け付けてもらえず、次のアリカンテ便は午後になるので、バレンシアまで飛んで、ここから200キロ足らずを鉄道で行くことにしたのだった。

 この日の目的は、アリカンテでの一次リーグ第三組のアルゼンチン─エルサルバドル。6月13日に始まったワールドカップの一次リーグも最後のシリーズに入り、一、三、六組が、この日で終了。24、25日に二、四、五組の最終順位が決まることになっていた。

 それまで、バルセロナ、セビリア、ビルバオ、ヒホンなどを回っていた私には、この終末に予定したアリカンテ、バレンシアの旅は、地中海岸でゆっくりできる唯一のチャンスだったのだが、仕事の段取りの関係で日程を詰めなければならなかった。

 そんな短縮日程の中で飛行機に乗り遅れるというヘマをしてしまい、いささか機嫌が悪かったのだが、バレンシアの駅で腹ごしらえをし、列車が動き出すと何となく嬉しくなってくるから不思議なものだ。


アリカンテへの車窓から

 スペインの国鉄は通称レンフェ(RENFE)平均時速50キロ、と案内書にある。私の乗ったのはバレンシアからマラガ行き。アリカンテまでは191キロで料金は528ペセタ(1,267円)、ローカルで、等級は2、座席指定もない。ヨーロッパの列に漏れず、切符を買えば、プラットホームへ行くのに改札口はなく、その代わり、必ず車掌が検札に来る。

 車輌はブルーとイエローだったか、窓が大きくて明るく、シートは赤。日本の国鉄と同じ四人掛け。私と同じ車輌に横浜から来た3人のハポネスも乗り込む。

 何となく、海岸の景色を楽しめると思っていたのだが、走り出してみると、なんとどんどん内陸へ入って行く。地図によると、バレンシア、アリカンテ間の海岸線は大きく三角形になっていて地中海へ突き出している。その三角形の中央部には600メートルから1,000メートル近い岩山が幾つかあり、鉄道は、それを迂回して一旦内陸へ入ることになっている。

 1920年代から30年代の郵便飛行のパイロットで、また作家であったサン・テクジュペリの書いたものの中に、スペインの「岩山」が出てくる。当時彼らはフランスのツールーズからバルセロナやアリカンテを経てアフリカのカサブランカ、ダカールへと航空郵便を運んでいた。

 「この地図にある岩山をサン・テクジュペリや、その仲間は、いつも気にしながら(海岸に近い山は危険なので)飛んでいたのだな」

 そう考えると、この鉄道の旅が急に、儲けものに思えてくる。

 ハティファという町から、線路は西南へ。この辺りはブドウ畑。

 アルクディア(16時25分)モンテサ(16時30分)バジャデ(16時37分)モヘンテ(16時47分)フェンテ・フィゲラ(17時5分)と文字通りの各駅停車で、その都度、パラパラと人が降り乗り込んでくる。駅員氏が、袋のワインを飲みながら見送るというのどかさで、ゆるゆると登ってきた線路は、フェンテ・フィゲラから下りとなってスピードアップ。岩山と果樹園、農地の組み合わせは、6月15日に見たセビリア─マラガ間のバス旅行のときと似ているが、もう少しゆったりと、もう少し豊穣。

 ラ・エンシナ(17時18分)から線路は南東に向かい、ビレナ(17時40分)、エルダと急に客が増えると、やがてアリカンテ。


マラドーナを間近で見る

 昔ギリシャ人が、アクラ・リュウカ(白い城塞)と呼んだアリカンテは、その地中海岸にそびえる岩山とサンタ・バルバラ城が古くから知られている。紀元前三世紀にカルタゴの将軍ハミルカル・バルカがこの要害に目を付けて町づくりをした、というが、そういえば、ここから100キロ南にはカルタゴ人の名を取った町カルタヘナがある。

 アバルトホテル、メリア・アリカンテは、548室。海岸にあって長期滞在客のために室内に小さな調理場も付いている。高台にあるエスタディオ・ホセ・リコ・ペレスまでのタクシーがなかなか捕まらず、ブラジル、英国の記者と相乗りで行く。ブラジル人によると、アルゼンチンからのプレス関係者はそんなに多くない。フォークランド紛争のために新聞のワールドカップにさくスペースも少なくなっているので、沢山来ても仕方がない。ブラジルは?の問いに、うん、今クルゼイロの対ドル比率が悪いので、そんなに大勢で押し掛けられないと。サッカー巨国の記者にも別の悩みがあった。

 エルクレス・フットボール・クラブの持つスタジアムは32,093人収容、私の席は下段で全体の俯瞰にはよくないが、マラドーナを近くで見るには良い。

 午後9時キックオフ。ハンガリーに1-10で大敗し、ベルギーに0-1で敗れて、すでに二次進出の望みのないエルサルバドルは、防戦一方でかなりひどいファウルをする。22分にアルディレスに対するファウルがあって、PKをパサレラが決めて1-0。後半7分にベルトーニが右から中へ持ち込んでシュートし2-0とした。

 マラドーナは、4番レシスからの悪質妨害に悩まされながら、左へ流れるドリブルと、その切り返し、あるいは、切り返すと見せての前進に、相変わらずの巧さと、足腰、特に立ち足となる右足の強さを発揮していたが、全体にスピードの緩急の落差が少なくメリハリという点で不満。30分頃に、ボレーで受けるのに、一旦ジャンプして、前に出している左足を更に伸ばして蹴ったところは、やはりマラドーナ…。

 アルディレスがファウルで倒されたPKの場面で、レフェリーを囲むエルサルバドル側に見向きもせず、アルディレスのところへ、飛んで行くマラドーナ。

 試合中に彼が例のハスキーな声で「マリオ」と呼ぶと、ケンペスがパッとタッチ際のディエゴにパスをよこす。こんなところに一番若いマラドーナのチームにおける位置の重さがにじみ出ていた。

 試合の後、タクシーは祭りのために全然拾えないという。

 歩いて町の中へ入ったら、なんと街路の四辻にはデコレーションがいっぱい。その側に舞台をしつらえて、歌っている者あり、椅子を並べて盛大に会食をしている者もある。フォゲレスと呼ぶお祭りで、例年6月24日がピークとか、バレンシアのファジャと同じように、超特大の人形をこしらえ、電飾を付け、ありとあらゆる飾りを付ける。人形は神様風もあればアラビア人風もあり、中にはサッカーのユニフォームを着たのもある。その華やかさ、そして巨大さと、混肴の不思議さと…。

 バレンシアやアリカンテは、レバンテ地方と呼ばれる。スペインの中央部から見れば東(レバンテ)にあるが、この地中海に面した地方は、古くからギリシャ、カルタゴ、ローマ、フェニキア、アラブ、あらゆる地中海の民族が交流し、住み着き、異種の文化と宗教が混ざり合っているところらしい。奇妙な人形群を眺めながら改めてスペインの歴史の複雑さ、地方色の多彩を思う。人形の形をしたバレンシアのファジャと同じく燃やされてしまうのだ。


「エル・シッド」再現はならず

 翌24日、アリカンテからマドリッドへ戻り、25日に再びバレンシアへ。ここのホテル、レイ・ドス・ハイメ、明るく、落ち着いた雰囲気で近代的だ。

 一次リーグの第五組最終戦、スペイン対北アイルランドの会場はバレンシアFCの本拠、ルイス・カサノバ・スタジアム。選手入口には、数百人が集まって「エスパーニャ」を叫び、太鼓を鳴らす、絶叫組の反対側にはバレンシアの伝統のコスチュームを着けた十人近くが、選手を迎えるために並んでいた。

 薄いパステル調の絹の生地に、絢爛たる花模様の刺繍、その上に白いエプロン、更に肩には白のスカーフ、それらには金糸の刺繍が輝いている。専用バスのスペイン代表は、その美女達をチラリと見ただけで、そそくさと場内へ。これまでに試合で、ファンの期待に応えられなかった彼らの表情は、この日も固かった。

 フアニートやサトルステギらが、三試合目に2,600万国民の心を惹きつけるような力戦をするかどうか──伝説的な英雄「エル・シッド」ルイ・ディアス・デ・ビバの居城のあったバレンシアでサッカーのシッドが現れ、アラブの群勢ならぬ北アイルランド軍を打ち破るのかどうか、私にはスペインの二次リーグを占う意味でも、この試合は誠に興味があった。

 残念ながら、チャールトン・ヘストンの映画で見るがごときエル・シッドの力戦奮闘は、スペインのイレブンにはなく、アイリッシュの闘志がスペインの技術を上回り、むしろGKパット・ジェニングスが完璧な守りを見せて、この日のシッド(英雄)となった。

 前回チャンピオンの不振、開催国の低迷と不満を残しながら、'82年ワールドカップは二次リーグへ入っていった。

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