賀川サッカーライブラリー Home > Stories > >ウインブルドンとサッカーがロンドンでのサッカー談議だった

ウインブルドンとサッカーがロンドンでのサッカー談議だった

6月26日(土)〜6月28日(月)ロンドン〜ビスケー〜カタルーニャ

 眼下にビスケー湾が光っていた。1982年6月27日、午後4時30分に、ロンドンのガトウィック空港を離陸したBA460便は、しばらく制止し、左手に英仏海峡を見るサザンプトン辺りを変針して、南に向けフランス上空に至ってナント市を過ぎて海上に出ていった。

 ワールドカップ・スペイン大会は、一次リーグは6月25日に終わり、28日から二次リーグに入る予定だった。

 一次リーグの最終戦をバレンシアで見て開催国スペインのまだまとまりの悪いのに失望し、北アイルランドの闘志と体を張ったサッカーに感銘を受けた後、次の26日朝、バレンシアを飛び立ってロンドンへ。一泊した後、スペインへ戻る途中だった。

 始めの予定ではバレンシアに二日滞在して、レバンテ(東方)地方を楽しむことにしていた。79年に来日したケンペスのサッカー・マガジンの対談で、彼にバレンシアの住み心地の良さを語られたときから楽しみにしていた。ホテルも飛びきりではないが、レイ・ドス・ハイメというまずまずの四ツ星を取っておいたのだが…。

 訪れたロンドンはフォークランドの戦争が一段落して、ウインブルドン・テニスが華やかだった。ヒースロー空港から市内への交通機関がストで止まっていたから、万事平常通りというわけだ。


ウインブルドンとサッカー

 ウインブルドンを取材した共同通信の小山記者に聞くと、北アイルランドとスペインのテレビをプレスルームで見ようとする記者が多く、喚声を上げるので、テニス一途の記者と、ちょっともめたという。また、英国のフリーのカメラマン達が、テニスの取材許可を取り付けながら、イングランドや、北アイルランドの二次進出で、スペインへ行ってしまい、いつもよりカメラ席は、空いているとか。

 知り合いの英国人と食事をしたとき、まずイングランドの二次進出おめでとう、と言ったら婦人がアイリッシュだからと言われて、北アイルランドのジェニングスの守りの完璧さや、アームストロングのドリブル、ハミルトンのシュートなどを誉めた。すると向かい側の二人が、私はスコットランド出身…。いやぁ、スコットランドは1勝1分け1敗、ブラジルに負けたがソ連には勝てそうだった。誠に惜しい、とまた付け加えなければならなかった。


無敵艦隊アルマダ

 ガトウィック空港で、日本からのツアーの一団が乗り合わせた。日産の加茂監督もいた。徳島の西真田先生の息子さん二人もいた。スペインから、ロンドン往復のチケットを買うとき、帰りの便は混んでいるのでエコノミーはなく、BA(英国航空)クラスという、ちょっと高い席しかなかった。高い分「イエッサー」と丁寧に言われ、気分は悪くないが、二次リーグを目指す各地からのツアーが、原因だったのか。

 英仏海峡を越え、ビスケー湾を見下ろして飛ぶと、中学生のときに歴史で習った1588年のスペイン無敵艦隊アルマダとハワードとドレークの英国艦隊との海戦を思い出す。

 スペインと英国の抗争の歴史は、宗教や、王位継承の問題が絡んで理解しにくいが、ともかく、世界の強国だったスペインが、130隻の大艦隊を繰り出したのに対し、遙かに少数の英国艦隊が何回かの海戦によって壊滅的打撃を与えたのだった。レコンキスタ(失地回復)から、1942年コロンブスの新大陸発見で急速に富を増し、巨大となったカソリック大国スペインが、このアルマダの遠征失敗から発展が止まり、勢いは哀えていく。

 400年後のスペインで今、英国人が打ち込んだフットボールのワールドカップが開催され、それによって新しいスペインを世界に見せようとしている…。そんなことを考えているうちに、機はビルバオから内陸へ入っていった。


情緒豊かなカタルーニャ人

 不思議なものでロンドンへ着いたときはヒヤリとした空気が嬉しかったのに、戻ってみると、スペインの強い日差しが懐かしい。二次リーグはマドリッドを基地にして、ときにバルセロナへ行くことにし、その日はホテル・ブレトンに泊まり、早朝バルセロナへ。開幕のときと違ってノウ・カンプはすっかり整って、プレス・ルームには一次リーグの全成績が置いてあり、プレス係の通訳達が笑顔で挨拶してくれる。

 電話室で英語の上手いラウラ・ポベダさんが、よく帰ってきたね、と喜んでくれる。彼女は開会式のリハーサルでいろんな踊りが出てきたとき、カタロニア風のこれはサルダーニャと言い、アラゴンはホタ、アンダルシアはフラメンコ、ガリシアはムネソア…などと、一つ一つのダンスを説明してくれた。前に比べて顔色が悪い。疲れているのではないかと心配し、飛び歩くのも良いが、じっくり滞在してカタロニアをもっとよく見ていきなさい、と言う。

 ここの男性と結婚している日本人女性大沼伊津子さんによると、カタロニア人は日本人と同じように、きめの細かい気の使い方や、情緒を持っているという。

 中央部の乾燥した大地と違い、地中海を前に、ピレネーの山を背にして変化に富む景観の中に暮らすと日本人と似た心が育つのだろうか。そういえばこの地の人はスペインで最も勤勉と言われている。従ってカタロニアは所得が多く、生活水準も高い。人口600万人はノルウェーやフィンランド、アイルランドなどよりも多く、カタロニア語という言葉があっても当然なのだという。市がくれる観光パンフレットにもスペイン語、英、仏、独と並んでカタロニア語の説明が付いている。

 そういった独立意識がマドリッドへの対抗心となり、FCバルセロナとレアル・マドリッドの試合は、バルセロナ対マドリッドの都市対抗であり、カタロニア対カスティリアの「国際試合」となる。マドリッドに負けないために、ドイツからシュスターを、アルゼンチンからマラドーナを大金で迎える。いったいそんな金が──と思うけれど、何しろFCバルセロナはこの6月で会員数が103,000人に達し、FIFAのアベランジェ会長も10万人の特別名誉会長として記帳されているほどのビッグクラブ。会費収入と、指定席の前売りが9億7740万ペセタ(約三十六億円)に達するという。

 そのノウ・カンプで午後9時からポーランド─ベルギー戦。ポーランドの速くて大きいオープン攻撃が成功して3分と、16分にボニェクのゴールが決まって一気に勝負が着いてしまった。ラトがドリブルしてゴールラインまで食い込み、深めに返したのをボニェクが走り込んだ勢いをそのままボールにぶつけるようにして蹴った。大会のハイライトの一つになるゴールだった。ラトに対するベルギーのプレッセルスのタックルが浅かったのでその後、ベテランのバンムールが次ぎに深いタックルの見本を見せ、仲間に士気を鼓舞した。これからいよいよ面白くなるぞと思ったがポーランドの勢いは止まらない。27分にクプチェビチが右へ出て左へ大きく振り、ブンツォルがヘディングで折り返すのをボニェクが、ヘディングで飛び出したGKの上を越して入れた。GKブファは、中央にハイクロスが出る、と予測して、前へスタートしたのが命取り。

 アルゼンチンの狭いスペースを使う攻撃を、ファウル気味のタックルとオフサイドトラップで悩ましたベルギー。欧州選手権でイングランドを困らせ、イタリアを怒らせ、西ドイツに抵抗した彼らの守りが、こんなに簡単に崩されるとは。

 ポーランドは74年ワールドカップのラト、ガドーハ、シャルマッフの速攻を思わせた。78年に彼らは老化したが、ボニェクの成長で、今また、黄金時代の精気を取り戻した。経済危機や連帯の問題でサッカーはしばらく忘れられた感のあるポーランドだが、槍き兵の疾走にも似た彼らの復活は、大会で沈滞気味のヨーロッパ勢の刺激となりそうだった。後半にオフサイドトラップの裏をかいてボニェクがハットトリック。

 試合後の記者会見で、「一次リーグとあまりに違う。今までは手を抜いていたのではないか」などと言われて監督は苦笑い。ボニェクのように風邪をひいた者もいて…とラトが弁明した。中盤を受け持っていたボニェクがスモラレクと二人で開いた形のツートップを作り、左サイドへブンツォル、右へラトが上がってくる仕組み。MFのクプチェビチも右へ出てくるので、右からのオープン攻撃が速いだけでなく、厚味と変化があった。この組み合わせが対ベルギー作戦のポイントだった。

 マドリッドの試合では、フランスが攻め続け1-0ながらオーストリアに完勝した。一次リーグで、不満の多かったワールドカップは、まず二次リーグのスタートに攻撃が勝ったこと。ポーランドに久しぶりにヨーロッパ中のスケールの大きい早い展開を見たことで、私の心は晴れやかだった。アルゼンチンは、イタリアは、西ドイツは、イングランドはどんな変貌を見せてくれるのか…。

↑ このページの先頭に戻る