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度重なる戦火を外国人として経験された林屋大使から丁重なご招待

7月2日(金)〜7月4日(日)マドリッド、日本大使館にて


懐かしかった大使の関西弁

 「やあ、いらっしゃい。あなたとは連絡が取れず、もうお目にかかれないのでは、と思っていたんですよ」

 語尾の下がる、柔らかい関西弁が懐かしく、大使の顔はにこやかだった。マドリッドのカジェ・ホアキンコスタ29(ホアキン・コスタ通り29番地)、私のホテルからもプレスセンターからも、そう遠くない日本大使館。

 「今日午後二時から、二時間ばかり時間がありますか。ちょうどNHKのスペインの文化についての取材に来ている人達と、公邸でお昼を食べるのです。あなたも、一緒にいかがですか、偉い勝手な話ですが、今日しか時間が取れないものだから」

 林屋永吉(はやしやえいきち)大使は、大正8年生まれだから、62歳。京都一中(旧制)のときに、私の妹の主人である佐藤四郎と同級という関係で、スペインへ行ったら、是非、訪ねておけといわれ、6月にマドリッドに到着早々、ここへ伺ったのだが、あいにく大使はバルセロナへ出張中。その後、私は一次リーグで各地を飛び歩き、前日、ホテル・ブレントンへ連絡をもらったのだった。

 82年7月2日、ワールドカップの二次リーグは各組とも第二戦シリーズにかかり、前日の7月1日にはマドリッドで北アイルランド─オーストリア、バルセロナでソ連─ベルギーが行われ、この日午後5時15分からバルセロナでブラジル─アルゼンチン、マドリッドでスペイン─西ドイツが組まれていた。

 「有り難うございます。早速ホテルへ帰って、夜の取材の支度をしてから伺います。バルセロナのブラジルの試合もプレスセンターのテレビで見る予定にしていますので」

 「今夜のスペインの試合は、私も行く予定です。その話も聞かせてもらいたいですね」

 大使は、公邸は少し離れているからと、住所と略図の付いたメモをくれた。公邸の一角は高級住宅が並び制服のガードマンが一帯の警備に当たっていた。庭が広く美しく、庭盤が花の手入れをしていた。

 スペイン人のコックによる日本食は美味しかった。大西洋と地中海の両方で魚が捕れるスペインは、日本人には食の点では変化があって嬉しい。


文化大使として高い評価

 大使は京都で名の通った製茶商、林屋一族の一人で、国立博物館の林屋辰三郎館長とはご兄弟だ。

 中学生のときスペインの音楽とスペインに憧れ、大阪外語大学でスペイン語を修めた後、1941年(昭和16年)に外務省の研修生として留学した。戦後はメキシコ大使館として一等書記官、ボリビア大使などを歴任した後現職に就かれた。

 1936年(昭和11年)に始まったスペインの内戦は、1939年(昭和14年)三月のフランコ軍のマドリッド入城で終結していた。フランコを支援したヒットラーのポーランド侵攻が9月に始まり、欧州には第二次対戦の戦火が燃えていた。

 林屋さんは、こんな情勢の中でスペインの学生生活を楽しんだ。

 「留学した年の12月8日に日米開戦、太平洋戦争に入った。米西(アメリカ・スペイン)戦争(1898年)に負けてキューバ、プエルトリコ、フィリピンを失ったスペインにとって反米感情もあったから、緒戦の日本の戦果に喜ぶ市民もあった。私はスペイン最古のサラマンカ大学に入学を許され、この古い町で勉強することができた。皆、遠くから北ハポネスを親切にしてくれて、友達も随分できてた。大学を卒業した後、大使館の仕事を手伝って終戦までいたんですよ。今度大使として赴任してきたとき、サラマンカ市では、私の歓迎パレードを開いて、自分の町の大学の卒業生が大使として帰ってきたと、とても喜んでくれましたよ。

 うん、ガールフレンドねぇ。当時のサラマンカには古くからの風習があってね、夕方、町の広場に若者が集まってくる。男は男の友達同士二人、三人で広場の歩道をゆっくり回る。若い女性はやはり友達同士で、男達とは逆に歩く。そこで、これと思う相手がいると申し込む。そしてその広場を男と女が、肩を並べてゆっくり歩き、話をするんです。今は、そんな優雅な風習はなくなったと、年寄りが嘆いていましたよ」

 フランコ統治下の40年については、評価は様々だが、独裁を嫌う人でも、彼によって分裂の歴史を繰り返してきたスペインが統一され、対戦に巻き込まれず、市民の生活が向上した功績は否定しない。

 大戦中の経験者が少なくなり始めている今、大使は外国人の目で当時のスペインを眺めた貴重な存在でもあるらしく、近頃では講演に頼まれる回数も多いという。

 「サッカーは、ここはものすごく盛んだが、そういえば私のいたときは、今のようではなかったね」

 「それは大使、やはり内戦の影響でしょう。スペインは1800年代の終わりに英国人がサッカーを伝え、1902年にはアルフォンソ13世の即位を祝ったサッカー大会が開かれているのです。1920年のアントワープのオリンピックの銀メダルを得ていますし、1934年イタリアで開かれた第二回ワールドカップでは、優勝チーム、イタリアが準々決勝でスペインと当たり、再試合の末やっと勝った記録もあるのです。当時スペインにはサモラという欧州随一のゴールキーパーがいて、彼の守りに相手チームはなかなか得点できなかったのです」

 NHKの取材班の人達にスペインを語り、自分の若い頃を回想する大使は幸福そうだった。秘書のおばさんや、執事に用事を頼むときの大使のスペイン語は、この国の人達と全く同じ様だった。大戦直後、一時期のフランコ政権と日本(米軍占領下の)は国交が無くなり、大使館は閉鎖されたが、その何ヶ月かを林屋青年は、スペインの古典をみっちり読み直したという。その頃の勉強が、今「文化大使」としての名を高めている。


地域の対抗意識が障害

 大使館からプレスセンターに戻ると、テレビはバルセロナのブラジル─アルゼンチンを報じていた。アルゼンチンはイタリアのときよりボールを広く散らし、攻めの展開ではないように見えたが、11分、後半21分、30分に得点して完勝した。マラドーナはブラジルの粘っこい守り(トリッピングの反則などを伴う)に悩まされながら、再三チャンスを生み出したが、後半中頃にはどこかを痛めたのか、動きが鈍ってしまった。いらだったマラドーナが、ついにカッとなってバチスタを蹴飛ばして退場処分を受ける羽目になった(バチスタという守備のセンスのいい選手が、このため次の試合に出られなくなったのが、イタリア戦に響くとは、このとき気が付かなかったが)二次リーグの初戦でイタリアに敗れたアルゼンチンは、これで大会から去ることになる。

 午後7時15分からのスペイン─西ドイツ戦は超満員となった。

 ゲームは始めから西ドイツが積極的で、リトバルスキーの素晴らしい動き、ブリーゲルの戦車のような突進が目立った。そして後半5分に、ブライトナーのシュートをGKアルコナーダが弾いたのをリトバルスキーが決めて1-0、30分にはリトバルスキーがクロスパスを受けてゴール前にドリブルで侵入し、フィッシャーが決めて2-0とした。

 スペインは、西ドイツの動きがガタンと落ちた35分頃から急に攻勢を続け、ハーフライン近く、やや右寄りから出したウルキアガのロブを、サモラが見事なジャンプ・ヘディングで1点を返した。

 それまでやや諦めムードだった場内は最高に盛り上がり、エスパーニャの大歓声がイレブンを励ましたが同点ゴールは生まれなかった。西ドイツはこれで一勝一分け、スペインは次のイングランドに勝っても一勝一敗となるため、準決勝進出の望みは絶たれた。

 大会前に私はブラジルや西ドイツを優勝候補に上げながら、スペインが準決勝に進出することを秘かに期待していた。

 第二次大戦後のスペインはレアル・マドリッドの欧州チャンピオンシップの連続制覇はあっても、ナショナルチームの方は振るわなかった。

 カスティーリャ、カタルーニャ、バスク、セビリアなど国内での地域意識が強いここでは、地域を代表するクラブチームの対抗戦はすごい熱気だが、ナショナルチームの国際試合はそれほどでないと聞いた。

 カタルーニャを代表するバルセロナFCはカスティーリャのレアル・マドリッドに勝ちたい。そのためにも大金を投じてアルゼンチンからマラドーナを買い、西ドイツからシュスターを求め、オランダからクライフを移す。

 レアル・マドリッドも同様に西ドイツからネッツァーとシュティーリケを迎え入れるのだ。

 地域対抗はプロスポーツの原点でもあるが、その対抗意識の強さのために、ナショナルチームの編成強化の障害になることもあるらしい。

 ワールドカップの開催にあたってスペインFAは、この辺に苦労した。一次リーグの会場をバレンシアにしたのも、マドリッドやバルセロナ、サンセバスチャンなどのサッカー勢力とは比較的中立な立場にある同地方を選んだのだという。

 80年欧州選手権でイタリアやイングランドと戦ったスペイン代表に、78年とは違った新しい勇気を見た。バスク地方のサンセバスチャンの選手が入ってきて、全体にスローを貴重とした展開に速さと激しさが加わっていた。その時の生き生きとした感じがこの大会では見られず、この大事な西ドイツ戦にも完全なチームに仕上がっていなかった。そういえばアルコナーダ(レアル・ソシエダ、サンセバスチャン)のゴールキーピングは、この日はパッとしなかった。ストライカーのサトルステギも休んでいた。彼らはバレンシアやマドリッドでは本来の力が出ないのだろうか。

 分裂と統一の繰り返しという歴史の流れの中で、スペインのナショナルチームはいつ全国のファンを喜ばせ、サポートを受けるのか──タイムアップの笛を聞きながら、私はスペインとスペイン人についてもっと林屋さんから聞きたいと思うのだった。

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