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インテリジェンスとセンスに満ちたフランスの華麗なプレーに酔う

7月4日(日)〜7月5日(月)マドリッド、カルデロンにて


狂会、日の丸、日韓定期戦

 日本サッカー狂会の20周年記念のパーティーが3月5日夜、東京・原宿で開かれ、久しぶりに池原謙一郎、鈴木良韶、東條員久氏らにお目にかかった。発足したのが1962年12月9日の三国対抗の全日本対スウェーデン選抜戦。以来、20年余り。アマチュアの集まりが、一つの組織として動き続けるのは大変なことだったろう。少なくとも、今の国立競技場での日本代表チームの試合に(観衆の数はともかく)スタンドが熱気を帯びるようになったのは、狂会のお陰だし、ユニークな会報「フットボール」の編集発行を続けておられる鈴木和尚さんの努力にも頭が下がる。

 77年に私は小さなグループで欧州旅行をしたことがあり、その時も会員の福島さん達と楽しく過ごした。会の若いメンバーの中にはグラウンドで声を掛けてくれたり、「この間、イタリアへ行って来ました」などと話を聞かせてくれる人もある。こうした、第二の池原さん、第三の和尚さん達に会う度に、日本も楽しい国になっているんだなあと嬉しくなる。

 3月6日の日本対韓国定期戦は良い試合だった。何より日本代表に進歩の後が見られたのが良かった。1-0のリードを同点に追い付かれたのは残念だが、あれだけ押し込まれて、ついにはシュートレンジでボールを拾われていたから、致し方ないところだ。

 もう一点を奪うための戦術と技術、あるいは逃げ切るための戦術と技術を、選手達で、もう一つ工夫しなければなるまい。

 それにしても両チームの頑張りと、スタンドの熱気は素晴らしく、日の丸が美しかった。久しぶりにサッカーで興奮しながら、これほどの楽しみを、もっと多くの人に生で味わってもらいたかった──と思うのだった。


激戦地マンサナーレス川

 止まっているバスに、エールフランスのマークが付いていた。三色旗を持つ人達が、続々とビセンテ・カルデロン・スタジアムへ集まってきた。1982年7月4日、二次リーグD組最終戦、フランス対北アイルランドのキックオフが近づいていた。

 プレスセンターから南へ6キロ、マンサナーレス川の岸にあるこの競技場は、アトレチコ・マドリッド・クラブの本拠。収容力62,000。立ち見席がないのは欧州では珍しい。レアル・マドリッドがあまりにも有名なのに比べ、私たちはアトレチコについて知ることは少ない。1930年代の名GK、サモラが監督をしていたこと。あるいは1958年のババが、このチームにいたことなどを聞く程度。

 むしろ、私のような戦中派には、マンサナーレスという川の名の方に記憶がある。あのスペイン内戦のとき、マドリッド攻防の激戦の舞台だったからだ。スタジアムから見下ろせば、川の岸はマドリッド側は高く、向こうは低く、攻めるに難しい地形のようだった。

 北アイルランドの頑健な守りからフランスがどれだけ点を取るだろうか──守りに有利な川岸を見ながら、プレスバスの中で、英国人記者達が、北アイルランドが勝って翌5日のスペイン対イングランドでイングランドが勝てば、ベスト4に英国から二チームが進出する──と景気の良い話をしていたのを思い出していた。


小さなジレス

 午後5時15分から始まった試合は、終わってみればフランス4-1の圧勝となった。その立役者はドミニク・ロシュトーだった。

 試合はフランスのベースで進み、例によって、プラティニ、ジレス、ティガナの短いパスが面白いように北アイルランドの守りを掻き回した。掻き回しておいて、なかなか点を取らないのがフランスだが、この日は33分にジレスが決めた。ロシュトーとのパスのやり取りの後、プラティニがゴールラインギリギリのペナルティーエリアから深く返し、ジレスが戻って取り、一つ持って右足でシュートした。

 163センチのジレスは、実際にはもっと背が低いのではないかと思うほど、小さく見える。昔の東西対抗で西軍に選抜されたプレーヤーとして歴史上、最も身長の低かった私は、ある程度ジレスの苦労と工夫は読み取れる。彼がペナルティーエリアというよりゴールエリア近くに侵入してシュートするとき、随分落ち着いて、しかも蹴り足をきっちり振っているのを見ると、ハハーン、やっているナと思う。小柄な者が近距離シュートをするときは、ゴールが大きく見える(目の位置が普通の選手より下にあるから244センチのバーも、普通の選手より高く見える理屈だ)。それに、短い足を振るからスイングは速い。自然、近づいてのシュートには自信を持つ。(練習が必要なのは当然だが)

 ジレス、ティガナ、プラティニ、ジャンジニの、四銃士の揃ったフランスMF陣は、本当に見て楽しい。パスを出すのが、いかにも優しそうにやってのける。ボールを受けるとき、受ける前にほんのわずかステップを踏み、歩幅をずらせることでパスのコースの経路を広げ、止まると見せて走り、走ると見せて止まり、パスすると見せてドリブルする。


ロシュトーの50メートルドリブル

 そんなグループによる攻撃展開の妙を、45分に渡って見せてくれたフランスが、後半1分に突如、ロシュトーの独演会に切り替わる。

 左タッチ際ハーフライン付近で、後方のトレゾールからの中距離パスを受けた彼が、相手DFと競ってまずボールを取り、正面に向き直るとゴールへ直進し、二人に挟まれながらドリブル、シュートをゴール左下へ決めたのだった。後でプレスセンターのビデオ室で確かめたら、突進の際のボールタッチは右足で9回。足の甲・アウトサイドでのプッシュにもちろん強弱があり、スピードを上げながら、追走、併走の二人の相手に対して、シュートに入る前に、一旦左斜めに行くと見せて右斜め前へボールを出し、右足でシュートしている。


アンギーユ、アングーラ、イール、ウナギ

 挽回を図る北アイルランドと、2点に満足しないフランスとの攻め合いが尚続く中で、フランスの3点目が後半23分に生まれる。今度もロシュトー。

 左サイド、ペナルティーエリア外でジレスに対する反則があって、FKとなる。ジレスがキックしそうなときに、シクス(後半17分にソレールに交代していた)がやってきた。これは長いクロスを出すのかなと思ったら、(守る方もそう思ったろう)すぐ近く10メートルばかりのところにいるロシュトーに渡した。ちょっと意表を突かれた感のある相手の守りの間を、ロシュトーはスルスルとすり抜けてピシャッとシュートを決めてしまった。

 私の両側にいたフランス人の記者は立ち上がり、拳を突き上げて何やら叫んだ。右側のは、その後座り込み、「オウ・ロシュトー」と呟いた。目にはなんと涙が浮かんでいた。

 ドミニク・ロシュトーは1955年1月14日生まれ、ワインで名高いボルドーに近いサントの出身。近くのラ・ロシェルのチームで本格的にサッカーを始め、ナンシーで18歳の時プロ一軍戦にデビューし、その天才的なドリブル、相手のマークをすり抜ける巧さを「アンギーユ(ウナギ)」と評された。大学進学資格を取得したくらいで頭もいいが、何処かかわっているとの評判だった。

 77年にニースでサンテチエンヌの試合を見たときは、チーム全体の調子が悪く、彼も期待ほどではなかったが、一度意表を突くシュートをしたのと、二度、すり抜けを見た。すり抜けは暗いサイドだったから、ステップや身のこなしの細部までは全く分からぬまま「ウナギ」という感じだけは残っていた。78年のワールドカップも不出来だったが、この日、ようやくその本領を見ることができた。

 ジレスからのパスを受け、初動で相手をつりながら、右足でタッチしたボールをすぐ左にぶっつけ手前へ出すところ、走りながらボールの側へ、カラのスティックを踏み(ボールを動かさないで)相手を牽制するところにドリブルの才能を見た。

 彼の面白味はこのドリブルの才能と同時に、いつも人の意表を突くことだ。オーストリア戦で、ゴール前10メートルのノーマークのシュートチャンスを待ち、誰もが「シュートだ」と思うと、サラッと隣のソレールに渡し、予期せぬパスをもらってソレールはシュートを失敗した場面があった。この日のドリブルも、まさに相手の意表を突いたタイミングだった。

 帰りのバスでは、英国記者は沈み、フランス記者は賑やかだった。その中で私は、前から興味を持っていたフランスのサッカーがいよいよ檜舞台へ上がってくれること、そして一人の異能プレーヤーの本領を見たことで、満足していた。そしてマドリッドでは6月にアングーラ(ウナギの稚魚=白魚=のオリーブ油炒め)を食べたこと、日本のウナギの蒲焼きを、かつてのマレーシア首相でアジアサッカーの推進者だったトンク・アブダル・ラーマンが好きだったこと、などを取り留めなく思い出すのだった。

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