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檜舞台で実力を出し切れず虚しく去っていった不運のプレーヤー

7月7日(水)〜7月8日(木)マドリッド、ベルナベウ・スタジアム


人影の消える昼下がり

 マドリッドの夏はさすがに暑かった。夜の試合のときでも30度を超えるほどだから、日中は推して知るべし。レストランや商店が表を閉じ、大通りからの人影の消える昼下がり、町全体は物憂い倦怠感に包まれる。何日か過ごすと、午後のけだるさにスペインらしさがあると知るようになるが、といってシエスタ(昼寝)を決め込めるほど心に余裕はない。そこで試合のない日は、昼にも開いているデパート「エル・コルテ・イングレス」へ買い物に行くか、プレスセンターでインフォメーションを探し、試合のビデオを見るなど…。

 二次リーグが終わり、準決勝(7月8日)までの中断期──7月7日の昼過ぎ、マドリッドのプレスセンターで電通の須永嬢に会う。ユニセフの児童基金募集のチャリティー試合をニューヨークで行う計画で、7月9日に、その企画の発表をFIFAとユニセフ委員からするのだという。

 世界のスターを一堂に集め、その試合の入場料を「子供を飢えから救う」ための基金に回す催しは、これまでに二度行われている。80年の暮れにバルセロナで行った試合には、日本から釜本邦茂選手(ヤンマー)も参加した。同年6月にイタリアで開催したヨーロッパ選手権のときに、ユーゴ人のプロモーターから企画を聞き、釜本君の参加には多少の手伝いもした。今度は、日本の広告エージェントの電通がプロモーターとなって、FIFAにもサポートしてもらおうという企画なのだ。当然、テレビ放映のスポンサーに日本企業を──。そのためには日本からもプレーヤー、たとえば西ドイツにいる奥寺康彦選手を出場メンバーに加えたいとも。出場交渉を始めている選手は、ブラジル、イタリアの代表を始め、ベッケンバウアーやケビン・キーガンの名もあった。

 世界のトップクラスのサッカー選手は、慈善試合の催しには、時間さえ許せばノーギャラで参加するのだが、特にキーガンは、シーズンオフにボランティアで少年サッカーのコーチなどをするくらいだから、今度も体の調子が戻れば参加するという。

 「キーガンね…」と言いながら、私は7月5日のイングランド─スペイン戦を思い出す。


スペインと引き分けに終わったイングランド

 二次リーグB組の最終戦、イングランド対スペインは7月5日午後9時から、マドリッドのサンチャゴ・ベルナベウ・スタジアムで行われた。90,089人収容の巨大な競技場は、有名なレアル・マドリッド・クラブのホーム。プレスセンターとはカステリャーナの大通りを隔てている。幅100メートル近い通りは大混雑するので、役員やプレス関係者は、プレスセンターから道路を跨ぐ陸橋を渡る。7万〜9万という人数が一カ所に集まってくるものすごさは、国立競技場や甲子園球場の5〜6万とは、格段の差。何しろ、外国人ツアー客用の貸し切りバスが道路の両側に2キロに渡って駐車する。

 その大観衆の唱える「エスパーニャ」の喚声に、さすがのイングランド・サポーターの応援歌も、ユニオンジャックも、飲み込まれそうだ。

 準決勝進出の望みが無くなった気楽さからか、スペインは思い切りの良い攻撃を仕掛ける。10分と20分にMFのミゲル・アロンソがシュートし、ゴールを外れたが、ノーマークになってイングランドをヒヤリとさせる。

 西ドイツが2-1だから、イングランドは2-0か3-2で勝たなければならない。30分頃から、そんなイングランドの意欲がスペインを押し込み、ウドコックやロブソンのヘッド、フランシス、リャクスのシュート、マリナーのヘッドがゴールを襲う。

 バンバンと打ち込む球が命中しないと見ると、イングランドは後半18分にリックスに代わって大柄のブルッキング、ウドコックに代わってキーガンが入る。

 キーガンが入ると、攻撃にメリハリが利いてくる。彼の動きは、スピードが急に変わる。そのために(そこへボールが出なくても)相手がつられ、アナを生じる。彼とのコンビの良いブルッキングが立て続けに強烈なシュート。一本はGKアルコナーダが弾き、一本はコースにいたアロンソを直撃する。そして25分に左からロブソンのクロスが飛び、キーガンがヘディングシュート、169センチと上背に乏しくてもヘディングに特異な才能を持つ彼が、この日はどうしたことか、ビシッとゴールへは行かない。

 まさに手を変え、品を変えて攻め続けたイングランドだが、結局は一点も奪えずに終わった。


不運だったキーガン

 ケビン・キーガンは、私の好きなプレーヤーの一人だ。ロンドンから北へ170キロ、シェフィールドの東北18キロの小さな町ドンカスター生まれ(1951年2月14日)、子供の時から、ずば抜けてサッカーが上手だったらしい。体が小さいのを理由に学校を出てすぐにはプロにはなれず、四部のチームに一旦入って、二年後、彼が20歳の時にリバプールに移る。ここでデビュー戦から活躍して、アッという間にリバプールの人気男になる。

 1977年に西ドイツのハンブルガーSVに移るまでに、リーグ優勝三回、FAカップ二回、欧州チャンピオンズカップ一回、UEFAカップ二回というチームタイトルを手にし、ハンブルグでは78〜79年のシーズンにリーグ優勝。78年、79年に連続して欧州最優秀選手。80年にはイングランドへ帰りサザンプトンでプレー。

 私が初めて生のキーガンを見たのは1980年のヨーロッパ選手権のとき、予選を経た7カ国とホストのイタリアの8カ国が終結するこの大会で、キーガンのイングランドは評価が高かった。

 残念ながら、このときは彼自身がベストでなく、またトレバー・フランシスという芸達者なストライカーもケガで欠場し、チームは一次リーグで退いたが、後方からの攻め上がりの速さとステップに、その片鱗を見た。

 今度のワールドカップでは、充実したイングランドの主将として世界から注目されていた。しかし背中の故障で一次リーグを休み、二次リーグもようやく最終戦の後半にだけ出たのだった。30分足らずのプレーだったが、あるいは前半からやっていた方が、チームには良かったのではないか。

 ドリブルが上手く、シュートが利き、動きの範囲が大きく、それでいて特有の素早いターンがあり、かつてのボビー・チャールトン型の指揮者である。ストライカーでもあるキーガンが故障だったこと、それはイングランドの攻めを単調にした大きな原因だったろう。

 オープンに走ってドリブルし、クロスを上げて仲間にヘディングさせる。得意のドリブルですり抜け、シュートへ持っていく。そんな自分の味に、新しい物を付け加えようと、西ドイツに移った。そこでは、キープレーヤーを徹底的にマン・フェア・マンでマークする試練にあう。その厳しいマークを振り切って、中盤から長い疾走でゴール前へ走り込み、決定的なチャンスを生み出すことをハンブルグで身に付ける。ハンブルグでの三年が終わると、次はイタリアを目指したが、結局はサザンプトンに帰る。

 それはイングランド代表として、より良いチームを作りたいためだった。そして82年ワールドカップの予選を突破し、イングランド復興の兆しを見せながら、肝心の舞台では不調のために志を果たすことができなかった。

 最初でおそらく最後のワールドカップのチャンスに、わずか30分足らずの出場とは…誠彼のためにも、世界のサッカーファンにも惜しいことだった。

 それにしても、イングランドが一次リーグでフランス(3-1)、チェコ(2-0)、クウェート(1-0)を連破しながら、二次リーグに入って無得点。西ドイツを圧迫しながら0-0、スペインを押し込みながら0-0、無敗のままワールドカップから退くとは。その一次リーグの会場から大西洋側のビルバオ、二次リーグが、内陸のマドリッド。彼らのユニフォームのマークがアドミラル(提督)というのは偶然だろうか。そういえばサッカーの母国イングランドが、最初に海外で敗れたのはやはりマドリッド(1929年5月15日)だった。

 須永さんと別れて、7日付の新聞に目を通す。エル・バイス紙は、イングランドのサポーターが騒いで25人が捕まったこと、西ドイツのルムメンニゲやラインダース達が記者達と一緒に準決勝進出を喜んだこと。そしてまた、8日のバルセロナでの準決勝、イタリア─ポーランドの開始が17時なのに、入場券に21時とミスプリントになっているからご注意、という記事まで載っていた。

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