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高い技術と熱い興奮を肌で感じ、準決勝の二試合を心から堪能…

7月8日(木)バルセロナ ノウカンプ・スタジアム


照明の勉強に欧州行脚

 「あなたは何処から?イタリアから…。私は、ムンディアールの取材で一ヶ月ばかりスペインにいるのです」

 1982年7月8日の午後、バルセロナのマジョルカ通り181のホテル・ダンテのロビーに、一人の若い日本人女性が座っていた。

 花光潤子(はなみつじゅんこ)さん。演劇の舞台装置、特に照明専門家で、三年ばかりヨーロッパの各地を回って各国の劇場を見ているという。1980年9月初めから英国で一年、ロンドンの演劇協会で勉強し、オランダ、デンマーク、ドイツ、オーストリア、ギリシャ、フランス、イタリアを経てスペインへやって来た。途中で知り合ったイタリア人達が、ノウ・カンプの準決勝を応援しようと誘ってくれるので、ホテルのロビーで待ち合わせているという。

 イタリアでは二次リーグの途中からワーッと沸き立つ気配になり、鉄道や車で、続々とイタリア人がバルセロナへ移動してきたという。

 7月5日で二次リーグを終わったワールドカップは、ベスト4が勝ち残り、この日、バルセロナで午後5時15分からイタリア─ポーランド、セビーリャで午後9時からフランス─西ドイツが行われることになっていた。マドリッドを11時30分発のIB(イベリア航空)628便でバルセロナに着いた私は6月28日に泊まったホテル・マジェスティークへ忘れ物を取りに行った。同じ四ツ星でも、このホテルはエアコンその他の設備がいい。スラックスの自動プレス機があったものだから、出かける間際わにプレスをかけ、ついポケットから出した定期入れを置き忘れたのだった。

 旅も終わりに近づくと、こうしたミスも出始める。そんな小さなミスよりも、私の心を重くするのは、この土地の去り難い思いだった。バルセロナは地中海、コロンブス、ピカソ、ガウディなど、私の頭の中にあったもの以外に、市の背後の意外に近くに、ピレネーの峰々の連なることを知った。本当なら車を走らせたいところだが…。

 わずか一ヶ月の私の旅に比べると、花光嬢(女性への礼儀で年齢は尋ねなかった)のヨーロッパ巡回はスケールが大きい。階段からガヤガヤと降りてきたイタリア人達とノウ・カンプへ向かった花光さんを見送りながら、つくづく日本女性のタフさと、若い行動力に感心する。


ノウ・カンプで聞くオーレ

 ノウ・カンプの入りは、75,000人。イタリア人の大声援の中で、アズーリ達は落ち着き、堂々としていた。シレア、コロバティの中央にベルゴミ。カプリーニのディフェンスライン。アントニョーニ、オリアリ、タルデリのMF、コンティ、ロッシ、グラチアーニの前列もすっかり安定していた。ただ一人のキーマン封じのジェンチーレは警告二回でこの試合には出場できない。最も、相手の文字通りのキーマン、ボニェクも黄色二回で、この日は出場停止。二人のチーム内での影響力からいけば、ボニェクを失ったポーランドの方が遙かに痛いだろう。あれだけファウルをしたジェンチーレが今頃出場停止とは、南米勢は面白くないだろう。

 ボニェクを欠いたポーランドは、スモラレクとラトが第一線(ツートップと言うより、スモラレクのワントップのようでもあるが)、普通なら左へ出るブンツォルが、この日は主として右側を受け持ち、彼からマチシク、クプチェビチ、チョレク。DFはジウバ、ヤナス、ジムーダ、マイエフスキ。

 二次リーグの第一線でベルギーに圧勝したポーランドの左、右へボールを散らす攻撃が、イタリアの守りにどんなショックを与えるかを見たかったのだが、ボニェクがいないと威圧感がない。前半初めにFKのあとカプリーニがヘディングでフワリとしたバックパスを出してゾフに渡したところに、イタリアの余裕があった。22分にFKからアントニョーニが良いクロスを出し、ロッシが合わせてまず1-0。ポーランドは逆サイドへ大きく振って、走り上がった第二列のチョレクやクプチェビチがシュートを狙う。クプチェビチのFKが左ポストを叩いてイタリア人をヒヤリとさせる。

 アントニョーニが負傷で退き、マリーニと代わる。攻撃のときに、タイミングと方向を変える重要な役である彼は、相手の強い当たりにさらされる。そういえば1980年の欧州選手権でも、決勝進出をかけたベルギー戦の前半で負傷退場した。最も彼がいなくても、今のイタリアの波は衰えない。

 マーク相手のいないカプリーニが積極的に攻撃に出る。後半27分にカプリーニが相手ボールに絡み、コンティが左へ持って出て、左からゴール前へクロス、ポーランドFBのヘディングが届かず、ボールはロッシが決めた。

 イタリアにとっての二点のリードは安全圏。終了が近づくとバックスがボールをキープ。相手が奪いに来ると巧みなフェイントパスワークでかわす。ときにはボールを浮かし、ボールテクニックを誇示する選手達にイタリア人がオーレを叫ぶ。スペインの闘牛やフラメンコの踊りのときなどの掛け声のオーレは、イタリアのサッカー場では単なる掛け声から「オ・レー・ア・オー、オーレ・オー。オレー・ア・オー、オレー・ア・オー」などと変化して、まるで歌のように合唱する。いわばオーレに共通の感情がこもる。

 スペイン人のファンも声を合わせオーレは、ノウ・カンプに響きわたる。イタリア・サポーターにとっては、まさに陶酔の極。日本女性も彼らとともに叫んでいるのだろうか──。


アディダス・ラウンジのTV観戦

 イタリアの注文通りの試合の後は、セビーリャのフランス─西ドイツをテレビ観戦。ノウ・カンプのすぐ近くにあるホテル・プリンセス・ソフィアへ行く。最高峰のここは、大会役員の宿舎でもあり、アディダスのラウンジがある。入ってみたら、誰しも同じ考えと見えて、二つのテレビの前は満員。入口から見て左と右の壁際に、それぞれテレビがあり、フランス人は左側、ドイツ人は右側の前に座り込む。つまり互いに背を向けての観戦。ドイツ人記者の一番前にはデットマール・クーラマーがいる。彼はレベルクーゼン(西ドイツ・ブンデスリーガ)の監督に就任し、7月12日のワールドカップ決勝当日にはチームが集結するから、10日にスペインを去るという。ワールドカップの話を聞きたいのだがと言うと、今夜マドリッドに帰るから明日でも会おう、と。

 試合は、西ドイツがリトバルスキーのシュートで先制し、フランスが、その10分後にPKで同点とした。フランスの攻撃は、この夜も素晴らしく、プラティニとロシュトーは西ドイツの守備陣を困惑させた。西ドイツは、ルムメンニゲやルペッシュ(後半に入る)を欠いて、攻撃の厚さと幅に欠けるが、疲れを知らぬブリーゲルの突進や、リトバルスキーの頑張りでフランスのゴールを脅かす。後半11分にフランスが決定的なチャンス。プラティニのスルーパスをバチストンがノーマークでシュートした。後半5分にジャンジニと交代していた彼は、シュートの後突撃してきたGKシュマッヒャーにぶつかられて転倒し、しばらく意識を失う。好調なフランスの攻撃に、「アレ・(行け)フランス」とがなっていたフランス記者達は沈黙する。やがて担架で運び出されるバチストン。イダルゴ監督はロペズを送り込む。「シュマッヒャーはレッドカード(退場)」の声がひとしきり。彼の体当たりはドイツ人記者にもショックと見えた。


西ドイツの猛反撃

 椅子のない私は、バーのカウンターにもたれたまま、ノートにメモを取る。近づいてきた一人が、スウェーデンの新聞社の者だがと言い「この中でメモをとり続けているのは、あなただけだから、写真を撮らせて欲しい」。そのメモで両チームの攻め込みを見ると、後半だけでフランスが19回、西ドイツが7回。プラティニに感嘆し、ティガナとジレスに舌を巻き、そして崩れそうで崩れぬ西ドイツに感動を覚えた。

 その西ドイツもついに延長に入ってゴールを奪われる。2分にFKからドイツ側の頭に当たって方向の変わった球を、トレゾールがボレーシュート。ここでデアバル監督は、ブリーゲルに代えてルムメンニゲを投入する。彼の加入で西ドイツの攻めに張りが出るが、フランスは8分にもプラティニのパスをジレスが決めて3-1とした。

 室内の半分の空気は華やぎ、半分は沈痛となる。しかし4分後、西ドイツは、ルムメンニゲがゴールする。左サイドからのパスを、ルムメンニゲが受け、左へ出たシュティーリケに渡し、そのリターンを貰い、今度はリトバルスキーに。リトバルスキーがドリブルで侵入して、ニアポスト側へ送ってグラウンダーをルムメンニゲが走り込んで、得意の右足アウトサイドでシュートした。

 黙りこくっていたドイツ側から歓声が上がる。そして延長後半、、キックオフから107分でついに同点。ルペッシュが頭で落としたのを、フィッシャーがオーバーヘッドキックの離れ技で決めた。

 疲れの見えたフランスは、残り時間を持ち堪えるのが精一杯。9時に始まった試合は11時28分になって120分の長丁場を終わり、更にPKスポットからのキック戦となった。

 120分間が、まさにサッカーの精髄であったとすれば、双方6人ずつのキッカーが演じた12分間のPK戦は、悲しみと喜びの交差する人間ドラマと言えた。フランスの6人目マキシム・ボッシのシュートをシュマッヒャーが止めた後、ルベッシュが成功すると、ドイツ人記者は抱き合い、喜び合った。アディダス社のミュラー広報部長も躍り上がっていた。フランスを初め世界にお得意を持ち、各国記者に友人の多い彼だけに、初めのうちは努めて平静だったが、ついに最後にはドイツ人に戻っていた。

 「問題の多いこの大会だったが、さすがはワールドカップ。ついに、サッカーでなければ演じられないドラマを世界に見せた」。私はその日のメモにこう書き込んだ。

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