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決勝を前に、改めてサッカーの世界もまんざらではないと思った…

7月9日(金)マドリッドにて


子供を飢えから救うため

 「ユニセフの募金のために世界オールスター・ゲームを82年8月7日にニューヨークで行います。世界で最も普及しているスポーツ、それを統轄するFIFAは、世界中の飢えた子供達を救おうというユニセフの趣旨に賛同して、このオールスター試合をバックアップすることを決め、第一副会長である、私キャバンが、コーディネーターとなります。実際の仕事はアメリカ・デンツー(電通)がプロモートし、アメリカ合衆国サッカー連盟(USSF)が運営に当たります。

 入場料とテレビ放映料で経費を賄い、利益金が子供達のために使われるわけですから、やはり沢山の人に見てもらうこと。そのために、プレスの皆さんの協力が必要です。よろしくお願いします」

 1982年7月9日、午後5時からの記者会見、数十人の記者、カメラマンを前に、FIFA副会長はリー・キャバン氏は、静かに、分かりやすく説明した。

 キャバン氏の隣りに、USSFやユニセフ、電通の関係者。更には前夜セビリアの準決勝でフランスを倒した西ドイツのデアバル監督とベッケンバウアーがいた。

 氏によるとこのオールスター試合は欧州選抜対レスト・オブ・ザ・ワールド(欧州以外の世界選抜)の形となり、欧州選抜にはイタリアのゾフ、アントニョーニ、ロッシ、フランスのプラティニ、イングランドのキーガン、ポーランドのボニェクら16人、名誉キャプテンとしてベッケンバウアーも入っている。そして監督は西ドイツのデアバルさん。世界選抜は、ファルカン、ジュニオール、ソクラテス、ジーコらのブラジル勢、ワールドカップで名を上げたカメルーンのGKヌコノやアルジェリアのベルミ、アメリカの人気ナンバーワン、キナーリャ(コスモス)、それにアルゼンチンのマラドーナ、更に我が奥寺康彦も入っている。名誉キャプテンはペレ、監督はブラジルのテレ・サンターナ氏。

 これまでユニセフのための慈善試合はヨーロッパで二度行われている。前二回ともヨーロッパの選手が主で、会場も近いところから旅費も選手の自弁。いわば、選手達が主旨に賛同して手弁当で試合に出る。だから経費は少なくてすみ、ユニセフに数千万円のお金が入った。

 今度はどんなことになるか。ニューヨークまでは遠いから、航空費自弁というわけにゆくまいが、開催地は世界のエンターテイメントのメッカ・ニューヨークだから、ユニセフの関係者は40万ドル(約1億円)ぐらいを見込んでいるという。その役員によると、世界では、放っておけば、毎日、4,000人の子供が飢えと病のために死んでゆくのだという。だからユニセフにとってはFIFAやサッカー人の協力が何より嬉しいし、この催しは是非成功して欲しい──(当日、スタジアムでは78,000人が観戦し、入場料収入だけで87万ドル=2億円あった)。

 ワールドカップという、いわば世界最大の遊び、オリンピックと並ぶ人類の大きな遊びを地球上の人達に供給し、楽しんでもらうこともサッカー人の仕事なら、その遊びを楽しむことのできない環境にあって、貧困と飢えに悩まされている子供達を救うことに、少しでも手助けするのもサッカー人の勤めだと思う。

 FIFAが、この催しに積極的に乗り出した理由を語るキャバン氏や、発表会を華やかにするために駆け付けたデアバルさんやベッケンバウアーの顔を見ながら、「サッカーもサッカー人も、捨てたものではないな」と胸の内で呟くのだった。


クラーマー氏の戦術論

 前日で準決勝が終わり、82年ワールドカップも、後三位決定戦(7月10日)、決勝(11日)を残すだけとなっていた。

 フランスとポーランド、芸術的なショートパスと、疾風のカウンター、そして決勝は、イタリアの老かいとドイツの剛毅。二つの決戦はいずれも、ラテン的世界と、ゲルマン的(あるいはそれに近い)世界の対立。ヨーロッパの東と西、北と南の対決と言えた。土地の新聞は「ラ・グラン・フィナル(大決戦)」の予想、各チームの戦力分析に懸命だった。

 プレスセンターから歩いて5分ばかりの、メリヤ・カスティーリャ・ホテルで、クラーマー氏は、挨拶もそこそこに、私の問いに答えて、82年ワールドカップを概説し、イタリアの成功は、マン・フォア・マンとゾーンディフェンスを併用した戦術の勝利と説いた。

 1960年の初来日以来、20年余りに渡る、付き合いの中で、彼は、いつも私を啓発し、サッカーのカルチャーショックを与えてくれた。大会が始まってから、ゆっくり会おう、語り明かそう、などと言いながら、ついに機会がないままに過ごした一ヶ月が今更ながら惜しかった。しばらくサウジアラビアのジェッダの監督をしていたが、82年夏からブンデスリーガのバイエルン・レベルクーゼンの監督となり、その練習開始で、11日の決勝は見ずに西ドイツへ帰る。日程が詰まっていて、この日も時間を割けなくて申し訳ない、と言いながら、15分の予定を30分に延ばして語り続けた。話はブラジルの技術の素晴らしさ、西ドイツやアルゼンチンの問題点などから、日本サッカーへの苦言へと移った。日本は第二の故郷というクラーマーは、今の日本代表の不振をとても気にしていて、いつでも、日本協会が来いと言えば、応援に駆け付ける。日本の個性を持った代表チームを作り上げるために平木君や森君と話し合いたい。と言っていた。


ベルナベウ氏の記念碑

 クラーマーと別れた後、彼の話をメインにして、私の新聞の特集ページをプレスセンターで書き上げることに没頭した。

 そのプレスルームでインフォメーションが一つ目に付いた。

 「7月10日、日曜日、午前11時からサンチャゴ・ベルナベウ・スタジアムの中で、ドン・サンチャゴ・ベルナベウ氏記念碑の除幕式を行います」

 ドン・サンチャゴ・ベルナベウ氏は1895年生まれ、4年前の1978年に亡くなっているが、1948年(昭和23年)からレアル・マドリッド・フットボールクラブの会長を務め、このクラブを世界的なものにした。

 元々レアル・マドリッドFCは898年に、マドリッドの学生達が、マドリッドFCとして創立し、第一次大戦までに、ビルバオのアスレチック・クラブと並ぶほどになり、1920年にアルフォンソン13世から、レアル(王位)の名を授けられたのだった。初め市の東方ブラナ・デ・トロスの近くのフィールドに本拠を置き、ついで自転車競技場へ移っていった。1910年代にチームのCFだったベルナベウ会長は、第二次大戦後、1948年に現地にホームグラウンドを移し、チーム強化のためミゲル・ムニョスという当時の名MFと契約し、1953年には南米コロンビアからアルフレッド・ディ・ステファノ、スペインのサンタンデールからフランシスコ・ヘント、ウルグアイのナシオナルからヘクトル・リアルを買い入れた。

 氏の大補強策は成功し、1954年にはスペイン・リーグで初優勝、56年にはヨーロッパ・チャンピオンズ・カップも獲得した。


チャンピオンズ・カップとレアル・マドリッド

 56年にフランスのランスからレイモン・コパが、58年にはハンガリーから亡命したプスカシュが入る。そして56年から60年までチャンピオンズ・カップに5連勝。60年にグラスゴーで行われた決勝では、西ドイツのアイントラハト・フランクフルトを7-2で撃破。カナリス、デル・ソル、ディ・ステファノ、プスカシュ、ヘントのFWラインは高い個人技と精妙なパスワークで不滅の攻撃ラインと賞賛された。当時のクラブ会員は6万人。54年に拡大された125,000収容のスタジアムは常に、ファンの歓声で満ちていたという。

 1955年1月2日からクラブ員の総意で会長の名を冠したベルナベウ・スタジアムは、64の出入口、32の階段、カスティーリャ大通りのすぐ側に、周囲632メートル、46メートルの高さで突っ立つ巨大なモニュメントでもあった。ワールドカップのために7億ペセタ(16億8千万円)を掛けて大改装し、収容力は9万人(座席36,500、立ち見53,500)と減少したが、照明を新式に、そして二つの大きな電気スコアーボードが取り付けられ、地下ガレージは170台に拡張された。


政治を越えたスポーツクラブ

 装いを新たに、記念すべきワールドカップのラ・グラン・フイナル(大決戦)を迎えるときに、かつてのクラブのボスであり、レアル・マドリッドの名を世界に広め、大スタジアムを首都の北地区に残した亡きドン・サンチャゴ・ベルナベウ氏の胸像を飾ろうというわけだ。

 彼らのスポーツ・クラブに「レアル」の名を授けたアルフォンソン13世は1931年4月14日に亡命、スペインの政治は王制から共和制に代わり、更にフランコ総統の時代を経て、再びフアン・カルロス王制に至っている。スポーツ好きな人々によって創められ、運営された「レアル」マドリッドは政治形態の変化の間に休むことなく、変わることなく動き続けてきた。

 偉大な指揮者サンチャゴ・ベルナベウを思いながら、レアル・マドリッドに改めてスポーツの独立性、独自性のモデルを見る思いだった。

 サッカーといい、スポーツといい、現実は必ずしも美しいばかりではない。しかし、サッカーもスポーツも、決して捨てたものではない。ワールドカップ大詰めに近いこの日、何となく落ち込みかけていた私に、キャバンのスピーチと、古い友人クラーマーの情熱と、レアル・マドリッドのドンの実績が新たな刺激となるのだった。

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