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決勝は欧州の中でのアルプスの南と北、ラテンとゲルマンの対戦…

7月11日(日)マドリッドにて


二ヶ月の夏休み

 「家族揃ってカディスへ」「私はイビサへ」

 プレス係のお嬢さん達の間で夏の旅行の話が弾んでいた。

 1982年7月12日、ワールドカップ・スペイン大会は最終日を迎え、マドリッドのプレスセンターは忙しさの中に、開放感が漂っていた。これまでの二回、74年西ドイツ大会、78年アルゼンチン大会は、開催国が決勝に残ったから、ファイナルの前夜と当日は、町中がピーンと張り詰めた空気だった。ブエノスアイレスでは、私が、儀礼としてアルゼンチンのシンボルの「セレステ」(空色)リボンを付けていたら、プレスセンターの美女が「あなたはアルゼンチン側だ」とキスしてくれた。ミュンヘンでは、当日、スタジアムまで乗ったタクシー・ドライバーに「西ドイツの勝利を祈る」と言ったら、わざわざ運転席から降りて、ドアを開け、挙手の敬礼をした。

 スペイン代表チームがすでに二次リーグで退いているから、この日のマドリッドには、そういう緊張感は乏しい。プレスセンターで、二、三日後に控えた休みが話題になるのも当然だった。

 8月20を過ぎるとカディスへ行くというエレナ。8月いっぱいか9月初旬まで、南スペインの港で過ごすのだという。イビサへ行く予定のモンセは、マジョルカ島の西隣にあるこの小島が、いかに美しく、素朴であるかを語ってくれる。そんな女の子達に聞いてみる。

 「イタリアと西ドイツ。どちらが勝つと思う」

 「イタリアでしょう」「私もイタリア」。プレス係も、コンピューター係も、電話の交換手も、みんなイタリア。そして、イタリアの方に親近感を持っていた。

 スペインに来て驚くのはイタリアが近いことだ。庶民は歌手ナンバーワンのフリオ・イグレシアスのヒット曲の中に、初めからイタリア語で吹き込んでイタリアで大ヒットしたという曲が(「愛人同士」とか「ヘイ」とか)何曲かあるらしい。イタリア語とスペイン語は単語も似ていて、彼ら同士は、そう苦労なく通じ合えるのだろう。どちらもカトリックが大主流、あのスペイン戦争の時にも、イタリアはドイツと同じようにフランコ側を応援し、経済的な支援もしたが、その後の借金の取り立ても、ムッソリーニの方がヒットラーより寛大だったらしい。

 この日、朝、大阪への記事の送稿にテレファックスを使った。この大会ではキャノンがスポンサーで公式サプライヤーの一つに入り、公式カメラ、公式コピー機の他、通信用の文字電送の送信設備を用意していた。

 開会式の日にバルセロナのスタジアムから送ったのは良かったが、マドリッドは、どういう訳か線の具合が悪くて、一向にはかどらなかった。せっかく、大阪のキャノンの事務所に頼んで、我が社にも受信機を取り付けてもらったのが、結局、開幕の人、三位決定戦の送稿にしか役に立たなかった。

 新しい試みをしたのがプラスと言うべきか。


三位より、全員出場

 その三位決定戦(アリカンテ)はテレビで見た。準決勝でボニェクを欠いてイタリアに完敗したポーランドが、彼の復帰でチームの攻撃力を増し、3-2でフランスを破った。

 フランスは準決勝とは大幅に選手を代え、プラティニもジレスもいなかった。西ドイツとの延長、PK線の激闘の疲れもあったろうが、イダルゴ監督は、大会に連れてきたプレーヤーに経験を与えると、言ったとか(フランス代表は第三GKのバラテリ以外は、全員が本大会に出場した)。三位よりも、全員出場を取るところが「平等」の元祖らしい。将軍を欠いても彼らのパスワークは素晴らしかったがそれに耐えて、6分間(40分、44分、46分)に3ゴールを上げたポーランドの破壊力もまた大したものだ。敗れても悪びれた風もなくフィールドの中央で手を振るフランス勢にスタンドが大きな拍手を送ったのは、ラテン気質の共感だったのか。


悲壮、ルムメンニゲ

 ファイナル・ゲームは20時のキックオフ。例によって、プレスセンターから、カスティリャーナ大通りに架けられた橋を渡ってサンチャゴ・ベルナベウ競技場へ。

 開始1時間前ですでに場内は一杯、観衆は9万人。試合直前にスペイン国歌吹奏の内にフアン・カルロス国王がご着席、イタリア国歌、西ドイツ国歌と型通りのセレモニー。貴賓席にはイタリアのペルチーニ大統領、西ドイツ・シュミット首相の顔が見える。シュミットさんは、フランス戦の翌日、ミッテラン大統領に「フランスチームの健闘を讃え、西ドイツの勝利は全く幸運だった。両チームに決勝に進んでもらいたかった」との電報を打ったとか。

 試合は始め西ドイツが攻勢に出た。1分にリトバルスキーのシュート、4分にルムメンニゲのシュートがあった。二つともちゃんとパスを繋いでの攻めだが、シュートはゴールになりそうではなかった。

 ことにルムメンニゲのシュートは、彼が反転して蹴ったときに、腰が回らず、ボールはゴールから大きく外れた。踏み込みに気を使っている様子で大腿部を痛めていることがはっきり見えたのがショックだった。

 前日の記者会見で「ワールドカップ決勝に出場のチャンスがあれば、片足だってプレーするのが当たり前でしょう」と言った彼だが、現実にはやはり無理なようだった。

 西ドイツの不調は、カルツにも見えた。攻め上がったときのクロスが、まるっきり低くてインターセプトされてしまう。ウイングFBとも言うべき彼は好調時に、楽々と、いいクロスを出すのに──。

 そんな西ドイツと比べイタリア選手は生き生きしていた。


PK失敗を跳ね返そう

 ルムメンニゲをマークした若いベルゴミ。リトバルスキーに対するジェンチーレを初め、一人一人が局面での一対一の戦いに積極的だった。

 今年のイタリアの面白いところは、マン・フォア・マンの守りから、味方ボールのときに思い切りよく攻めることだった。

 24分にアルトペリのクロスに飛び込んだコンティと、これを防ごうとしたブリーゲルが倒れ、ブリーゲルが引っ張ったというのでPK。コンティの速さに、時々遅れそうになっていたブリーゲルには、この手しかなかったらしい。

 この絶対のチャンスにカプリーニは、ゴール右にPKを外す。

 がっくり頭を抱える彼の側へチームメイトが駆け寄る。「失望する彼を全員が慰めた。これがイタリアのチームワークだ」と後でベルツォット監督は言っていたが、こうして前半は、イタリアのシュート3、西ドイツ7。無得点で終わる。

 55分(後半11分)にイタリアがFKからまずゴールをもぎ取った。ルムメンニゲがオリアリにファウルをしたFKで、ドイツ側がちょっともたついている間に、タルデリが、いち早く右サイドにボールを散らす。そこにジェンチーレが上がっていて、ノーマークでキープ、充分に狙ってゴール前にクロスを送る、西ドイツのDFの間を抜けたボールをカプリーニが飛び込んで空振り、その外側にちゃんとロッシが走っていてヘッドで押し込んだ。

 活気づくイタリア側、反撃する西ドイツは62分、ルペッシュ(ドレムラーに代え)を投入して空中戦に挑む。彼はコロバティより遙かに高くジャンプヘッドし、イタリア側を脅かせるがゾフがキャッチ。しかし一方で西ドイツはMFが手薄となり、それが守りに響いて、68分のイタリアの2点目となる。シレアの上がりから中盤で数的優位を作り、ジェンチーレから横パスを受けたタルデリが左へ外してシュートを決めた。攻守兼備のタルデリの一発で、勝負はほぼ見えた。西ドイツはルムメンニゲが退いてハンジ・ミュラーが代わる。この左足のテクニシャンも故障が直っておらず、結局名前だけ。80分には、ブリーゲルの突進攻撃が裏目に出て、彼が転倒(ファウルを取ってもらおうと)している間に、コンティが走って西ドイツの守りに穴を開け、アルトペリがGKをかわして3点目を加えた。

 場内は一気にイタリア優勝のムードになり、3分後にブライトナーが1点を返したが焼け石に水。後1分のところでベアルツォット監督は、若いアルトペリに代えてカウジオを送り込む。監督が代表チームの建て直しを図ってから、8年間ゾフとともに働いた33歳の彼に対するはなむけだろう。そのカウジオからシレアへ、更にタルデリへとGKゾフのバックパスを含めて11回もパスが続きドイツの追及をかわす。それに合わせイタリア国旗が振られ「オーレ、オーレ」の大歓声がベルナベウにこだまする。ついに午後9時30分ブラジル人コエーリョ主審の笛が鳴ってイタリアがチャンピオンとなる。


過去と現在を結ぶサッカー

 試合後のセレモニーが終わり、スタジアムを出るとカスティリャーナ大通りに人並みが流れ、イタリア国旗を持った若者や、おっさん、女の子達が大声で叫んでいた。陸橋の上から眺めながら私はこの大通りの2キロほど先に、コロン広場があるのを思い出した。スペイン王の援助によって、アメリカへの航路を発見した天才的航海者クリストファー・コロンブス(コロン)を記念する像はスペインのあちこちにある。彼が旧世界と新世界を結んでから490年、スペインに世界の目を集めて開催されたワールドカップでイタリア人が優勝した。新大陸の強チーム、アルゼンチン、ブラジルを退け旧大陸のポーランド、西ドイツを制して──。

 世界を結ぶサッカーは、また過去と現在をも結ぶのかも知れない。

 この日の私の目も「大会の組織や運営が大ざっぱで、連絡がいい加減。だから、というだけでイタリア人を判断してはいけません。彼らは世界の歴史に大きなものを残したように、サッカーでも素晴らしい才能を発揮します」80年欧州選手権(イタリア)のとき、あるドイツ人の友人に言われた言葉ほど、今年のイタリアにふさわしいものはない。

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