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ムンディアル'82の40日間の旅で味わった様々な出会いを振り返る

7月15日(木)フランクフルトから大阪へ

 「ジャパニーズ・ティーもありますよ」。久しぶりの日本茶だった。

 1982年7月15日、フランクフルトを10時50分に離陸したルフトハンザ(LH)685便のジャンボ機は、北へ向かっていた。

 ──そういえば、今度の旅行では、いつものように日本茶を持ってきたのに、一度も飲まなかったな──と思う。いや飲む気がしなかったと言うべきだろう。40日間の旅は、それほど忙しかったのか、あるいは、日本を忘れていたのか…。

 そんなことを考えながら、習慣でノートを出して、メモの補足をしながら、ここ二、三日を振り返る。


選手を抱きしめたい──とイタリア大統領

 7月11日夜、マドリッドでイタリアが西ドイツに完勝して、82年ワールドカップの王座に着いた。彼らにとって1934年、1938年の第二回、第三回の大会の連続優勝以来のタイトル。

 12日のマドリッドの朝刊は、もちろん一面から大報道。

 「エル・バイス」紙はタルデリとジェンチーレが「ゴール」を絶叫しているアップの写真。

 「ABC」紙は、ワールドカップを両手で、高々と差し上げるゾフの写真。

 「ヤー(ホヤ・デル・ルーネス)」紙はカプリーニとロッシがダイビングした一点目。「ディアリオ16」紙は三点目で抱き合うイタリア選手と、イタリア大統領とカルロス国王の握手の二枚が、それぞれのトップを飾っている。

 記事で面白いのはサンドロ・ペルチーニ大統領。見出しに「私は一人一人を抱きしめたい」とある。

 西ドイツのシュミット首相は、デアバル監督と一緒に、床にお尻を下ろしている写真。説明によると、カメラマンに負けたポーズを、と注文され、監督と相談して、床に座ることにしたという。

 ペルチーニさんは、大統領専用機で、選手達と一緒に凱旋する得な役割になったが、西ドイツのシュミットさんは、今回は損な側だ。

 それでも政治家が、こうしてスポーツの、それもプロフェッショナルの選手の試合場に顔を出し、一喜一憂するところが、ヨーロッパ(南北アメリカを含めて)流だ。

 試合を振り返っての有名人の談話がいっぱいある中で、オペラ歌手パラシド・ドミンゴのはこうだ。「イタリアは素晴らしかった。アルゼンチン、ブラジルに勝って調子を上げていたから、決勝も有利だと思っていたが…。個人的にはタルデリが良くやったと思う。フットボールは好きだし、こんな試合をナマで見ることができてとても嬉しい。最もスペインが不振だったのは悲しい。大会に備えての準備が悪かったのだと思う。84年のヨーロッパ選手権を目指して、ナショナルチームをもっと強化して欲しい」

 エル・ムンディアル(ワールドカップ讃歌)を歌っているだけに、スペイン代表への注文も厳しい。

 12日の私は、プレスセンターでこんな新聞に目を通したり、原稿を書いたり、ホテルで荷作りをしたり。いつもながら、買い置きの新聞や雑誌、それにパンフレットなどが一杯になる。殆どがスペイン語だから、持って帰っても、すぐには役立たないが、捨ててしまえば永久に手に入らない。78年の時は、ブエノスアイレスの旅行のエージェントが発送してくれたが、今度はそうはいかない。自分一人で、格闘の末、ポスターの包みを五個。ノートや本や新聞の包みを七つにまとめる。


レストラン「黒ダイ」

 翌13日の午前中に、SITという航空貨物のエージェントへ荷物を出しに行く。50キロはある。一つ一つの箱にまとめて入れて送りますからと手際良く処理してくれる。そういえば、ブエノスアイレスでもローマでも、航空貨物を出すときだけはテキパキと仕事がはかどったのを思い出す。

 午後はプレスセンターの通訳嬢たちとお別れの昼食。彼女たちが案内してくれたのは、プレスセンターに近い「ラ・ドラーダ」という魚料理のレストラン。FIFAの役員達がよく利用していたそうだ。

 白ワインで乾杯した後、「チャンケッテス」(白身魚の唐揚げ、レモンまたはトマトとガーリックのソースで味付け)、「ラペ」(アンコウの切り身のフライ)、「コゲナス」(ホタテ貝のオイル煮)、「シガラス」(エビの塩焼き)、「ラ・ドラーダ」(タイのボイルホワイトソース)などがある。彼女たちは、いちいち材料の絵を描いて名を教えてくれるのだが、彼女がチルラス(=アサリ)と呼んだのは、勘定書きを見ると、コキナス(=ホタテ貝)であったり、ランゴスティノ(=エビ)がシガラス(=ザリガニ)であったりした。学生のエレナとOLのモンセイは二人とも日本には絶対行くんだ、それはそうと、あなたはいつスペインに帰ってくるのか、などという。

 女性二人がビノ(ぶどう酒)をバンバン飲み、男がアグワ・ミネラル(アグワ=水)では様にならないがキャビン(船室)風の室内の雰囲気と、よく利いた冷房のお陰で食も話も大いに弾んだ。デザートは例によってサンディア(スイカ)。

 この連載の最初(82年8月)で触れたように、毎年夏が来てスイカを食べると、私には特別の感慨が湧く。対戦の末期、昭和20年春に特別特攻隊(陸軍ではと号部隊といった)を編成したときの隊長の言葉は「今年のスイカは食べないからな」だった。そんな1945年、37年も前の話を、戦争を知らないスペイン娘に語りながら、改めてスイカの甘さを味わうのだった。


マヨール広場のドンファン劇

 彼女たちと別れて、コルテ・イングレスで買い物をする。ムンディアル(ワールドカップ)の歴史をアナウンサーが語るテープ(ラ・イストリア・ソノラ・デ・ロス・ムンディアル)や、大会開催地の各都市の民謡などを収録したムンディアル82…全会場の分を欲しかったのだが、荷物を送ってしまった都合もあり、セビーリャ、バレンシア、バルセロナ、サラゴサ、マドリッド、ビルバオなどに留める。

 夜はプラザ・マヨールでの野外劇「ドン・ファン・テノーリオ」を見に行く。

 マドリッド市役所の後援で毎年夏、マヨール広場で野外演劇、音楽会などを行っているらしい。

 四階建ての建物に四方を囲まれた広場は、縦94メートル、横122メートル。サッカー場がたっぷり取れる広さ。その中に囲いを儲けて木戸銭を取る。

 色男の代名詞のようなドン・ファンのストーリーについては、紙数の関係で省略するが、19世紀にホセ・ソリーリャが書いたドン・ファン・テノーリオは多くのドン・ファンの劇の中で、スペインでは極めつけになっている。台詞はもちろんスペイン語で、全く分からないが、それでも芸というものは面白いもので、見入っている内に、筋や役柄や、その表現が飲み込めてくる。普通の劇場ではないから、舞台が回って場面が変わるのでなく、酒場の景から教会、あるいは墓場と場面が移る毎に、「あちらの舞台へ移るから」という口上があり、そちらの方の舞台へ観客がゾロゾロと移動する。

 前夜、遊んだものだから14日は朝からサムソナイトのトランクやバッグをまとめるのに汗をかく。昼前に、グラン・ビア88にあるルフトハンザ航空の事務局へ出かけて、15日のフランクフルト─大阪便の確認をする。フランクフルトでの宿泊予定を聞くので「まだ決めていない」と言うと、「空港のシェラトンならルフトハンザ持ちで泊まれます」「じゃあ頼む」。彼女はコンピューターを叩いて「予約は確認できないが、打ち込んであるので向こうの空港のインフォメーションへ寄って欲しい。同じ機会にこの番号を入れてあります」と。

 二次リーグの取材のベースであったホテル、ブレトンともお別れ。ここの支払いは例の悪名高いムンディエスパーニャ82(ワールドカップの宿泊などを取り次ぐ組織)を通じて全額前払いしてあるので、一週間毎のミニバーやバール(ここはレストランがなく朝食だけ)、ラバード(洗濯)などの精算だけ。四ツ星の割には古くて小さいが、それだけフロントも家庭的。格別高かったが、冷蔵庫の利くツインを一人で占領したのだから…。

 16時20分発のイベリア航空684便はエンジンの設備で30分遅れて離陸。フランクフルト空港ですぐルフトハンザ・インフォメーションへ。東洋人の顔をした美人が私の説明を聞いてコンピューターを叩き「全てOK。ノープロブレムです。ホテルへはそのエスカレーターを上がって左へブリッジを渡って下さい。」

 空港のエスカレーターはトランクを運ぶ手押し車を乗せられるという便利さ。インフォメーションの女性達のキビキビした対応。訛のない綺麗な英語。全てがスムーズに運ぶことに、改めてここはドイツだなと思う。

 食事は夕食30マルク(三千円)朝食14マルクが航空会社の負担。ウインナ・シュニッツェルとコーラとミネラルウォーターで28.5マルク。別注のフルーツカクテルがとても美味しかった。ベッドは柔らかい掛け布団、そういえば、スペインでは布団はなかった。


美しかったリバプレートスタジアム

 メモを付け終わってしばらくうとうとして目が覚めたら、7時間半経っていた。後3時間でアンカレッジだ。

 ハンブルクから沢山乗り込んできたので、周りは殆ど日本人の客だった。74年に初めてルフトハンザの北回り便に乗ったとき、日本人客が少なかったことを思い出す。1954年のワールドカップのとき30歳だった私は、スイスから送られてきた取材の申込用紙を手に、いつかワールドカップの決勝大会をカバーする日が来るだろうか──と夢見たものだ。そしてその後で来日した韓国の李コーチに、彼らが対戦したハンガリーのマイティ・マジャールのプレーを「ハンガリーはカーブキックで大きく迂回したパスを出すのですよ」と聞いたものだ。

 日本経済の拡大とサッカーの成長で74年から三度のワールドカップやヨーロッパ選手権、コパ・デ・オロなど30近い都市で50もの国際試合をナマで見ることができた。

 各国代表チームを構成する一人一人の優れたプレーヤーの個性を眺め、個性の組み合わせによるチームプレーを味わうこと。プレーヤーの個性の元となるボールの持ち方、ボールの蹴り方、その得意の角度にまでさかのぼる面白さは、手を着け始めればキリはなかった。

 74年に最盛期のヨハン・クライフやベッケンバウアーに接したのは本当に幸運だったし、ゲルト・ミュラーという異能のストライカーを知ったのも私のサッカー観の上にプラスだった。オベラーツ、グラボウスキー、フォクツ、ブライトナー、シュバルツェンベック、ボンホフ、ヘーネス、ヘルツェンバイン、それにGKマイヤーの優勝メンバーは、今でも一人一人のボールの持ち方が頭に浮かんでくる。

 この74年の旅では、サッカーを取り囲む西ドイツの環境、ドイツ気質、スポーツへの取り組み方に直接触れたのも有り難かった。

 78年のアルゼンチンでは「ゴォォール」を絶叫するラテン気質とラテンサッカーの本質を満喫した。リバープレートのスタジアムの最上段からグラウンドへ落ちてくる紙吹雪とテープと青白の国旗の美しかったこと(実際の紙吹雪は新聞紙の大きな切れ端だったりした)。スピードに乗ったドリブルでの的確なボール扱いと、勝利を狙う気質と、サポートする2,500万国民の願いが野次馬記者にもひしひしと感じられた。 足のアウトサイドとインサイドの先端を使い分ける南米流のボール扱いとフェイントは、このときサッカーマガジンが編集した連続写真の特別号(ワールドクラスの技術)で紹介できたのは幸いだった。


不満もあったがやはり魅力があった

 今度の大会は私にはどんな意味があったのか──。

 ロッシを欠いて、ヨーロッパ選手権もコパ・デ・オロも、いや、ロッシが復帰しても彼の勘が冴えないときのイタリアの惨めさと、彼が目覚めてからチーム全体の生き生きしたこと。

 どのように強いチームでも、個人の特色と、それの生きる組み合わせがいかに大きいかを実感したことだった。精密な技術、強靱な体力を持ったプレーヤーでも気持ちが高潮しなければ体も技も死んでしまう。サッカーでの気分の高まりは「ゴォオール」が一番だ。ましてイタリアのように守備に自信を持つチームは、得点すれば、あるいは得点経路のイマジネーションが定着すれば、相手にとってとても手強いものとなる。

 ジェンチーレを試合中に退場させなかったレフェリーに問題は残るとしても、イタリアの優勝は、競技での「気分」の大きさを(いつも語り、知っているつもりなのに)改めて教えてくれた。

 西ドイツやブラジルやアルゼンチン…。彼らのチームの成り立ちを知りたいためにローマやモンテビデオまで出かけて眺めたのに──この三つのサッカー大国の先についてはすでにいろんな機会に触れたが、アルゼンチンはインフレという国の経済事情とそれ故に起こったマラドーナの高額移籍がチームに陰を落としたし、西ドイツはクラブの試合の過密で選手のコンディションが崩れていた。サッカーの爛熟から来る害の一つだったろう。

 技術と戦術とは別のテーマ、スペインとスペイン代表チームの関係を見ようとした私の目論見は必ずしも充分に果たせなかった。一つには今回の大会が最初の24カ国52試合の大規模なものになったからだろう(西ドイツのデアバル監督は、真のワールドチャンピオンを決めるのは8〜12チームが適当と言っている)。

 開催国はこの大がかりなフィエスタの運営に気を取られ選手達の強化に身が入らなかったと言える。日頃は強チームの重要部分、軸となるところを外国から大金で雇い、補っているから、国産を育てるためには長い期間が必要だろう。地方意識の強いこの国で、今度の大会での敗戦を足場にナショナルチームという考え方が確立するのだろうか。

 それにしても、諸々の不満の残る82年ワールドカップも全体としてみれば、やはり魅力に満ちていた。それは、晴れやかな地中海、暗い大西洋、豊かな平野、赤茶けた大地と、あらゆる風景のあるスペインの国土と同じように、サッカーそれ自体が勝利へのむき出しの意地、爽やかなスポーツ精神、エゴといたわり…この世の縮図を表していたせいかも知れない。スポーツであって、すでにスポーツの枠を越え始めたサッカーのビッグイベントは、そのありのままの姿こそ面白味があるのかも知れない。次の84年のヨーロッパ選手権は、どんな姿を映し出すのか…。

 「間もなくアンカレッジです」

 アナウンスを聞き、窓外に白い山を見ながら、私の心の旗手はすでにフランスに向かっているのだった。

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