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ナシオナルのトレーニング場でムヒカ監督と話しながら考えたこと。


ウルグアイ(ウルグアイ)
テ ケレモ
テ ケレモ
ペール カンペオン

 ポルケ エン エスタ

 ティエラ ビーベ
ウン プエブロ

 コン コラアソーン


URUGUAY(URUGUAY)
TE QUEREMOS
TE QUEREMOS
VER CAMPEON

 PORQUE EN ESTA

 TIERRA VIVE
UN PUEBLO

 CON CORAZON


東京・国立競技場で

 2月11日、国立競技場で満員・6万2,000の大観衆を眺めながら、わたしは記者席で『テ ケレモ ペール カンペオン』のメロディを口ずさんでいた。口ずさみながら、やはり、プロモーションの人たちに、この曲を、場内に流すようにもう少し強く、掛け合うべきだったかナと、ちょっぴり、後悔もした。

 この歌は、80年12月30日から1月10日まで、首都モンテビデオで開催されたコパ・デ・オロ(黄金のカップ)、またの名『ムンディアリート』(小さな世界選手権)の行進曲だ。メロディは憶えやすく、2、3度きいたら忘れないし、歌詞もまた、歌いやすい。78年ワールドカップでアルゼンチンの人たちが高唱した『バモ バモ アルヘンチーナ』(ゆけアルゼンチン)より、ちょっと調子は明るく、かつ、あれほど戦闘的でないが、歌いながら、足をふみ、踊りたくなるところは同じである。
「日本のスタジアムは、少々人が入っても南米やヨーロッパほど、スタンド全体から声が出るわけじゃない。とくに試合のはじまる前が、静かだから、そのときの賑やかしに、こういう歌もどうだろう。ついでながらフォレストのほうは、特定の歌はともかく、イングランドのスタンドで歌ういくつかの歌を収録したカセットテープもある……」と持ちかけたのだが、仕事が山積している最中だったとみえ、まあ、まあ……ということだった。そんなことを考えているうちに、にわかに頭の中は1ヶ月前に逆もどりする。そして目の前の、枯れた芝と土の色あせたフィールドに、青青とした芝のグラウンドのイメージが重なってきた。


ロスセペデスで

 わたしにとって「オーパ!」の連続だったコパ・デ・オロのいろんなプレーや試合と別に、もうひとつのオーパ、強い衝撃は、ロスセペデスにあるナシオナルの練習場だった。
 市内からタクシーで20分、バスの走る幹線道路を右に曲ってゆるい坂道をあがると、左手の牧場で、牛が悠々と草をはむ。その逆サイドに上下、3面設けられたフィールドの芝の見事なこと。リバープレートも、エスタジオ・センテナリオも、深い草で、ところどころに凹凸があり、南米はどうもこの程度かと思っていたのに、郊外に、神戸の中央サッカー場より、なお上等のカーペットが2面もあるとは……。

 クラブ・ナシオナル・デ・フットボールは1899年の創立、ペニャロールとともにウルグアイを代表する名門。モンテビデオにあるプロ・リーグ加盟の14クラブのうちでも2つが、ずば抜けている。したがって、オチョ・デ・オクトゥプレ(10月8日通り)にあるクラブ事務室や娯楽室の立派なこと、そのすぐ裏側にある、セントラル・パルケの球場が、古いながら2万人収容のスタジアムと、その中にトレーニング室、医務室などの諸設備を持ち、フィールドの芝も手入れのゆきとどいていることに感心はしながらも(日本にこんなクラブはないのだが)とくに驚くことはなかった。もっともクラブの社交室というべき広間に、100年の歴史を示すトロフィーがずらりと30メートルの長さ、2メートルの高さのガラス棚に収容されているのは壮観だが……。

 そのセントラル・パルケの監督室へムヒカ氏を訪ねたのが1月6日。「5分前にアルゼンチンのメノッティ監督がきて、ロスセペデスへゆきたいというので、一緒にゆきました」「メノッティさんは、練習というより、ロスセペデスの食事と雰囲気が好きなんですョ」との言葉に興味をひかれて1月8日、ナシオナル・クラブのプレス担当のプラボー氏を煩わしての訪問となった。

 2面のグラウンドの他に、食堂兼サロン一棟と、別棟にトレーニング室、浴室と寝室が配備されていた。
 勿論、西ドイツの、たとえばバイエルン・ミュンヘンなどの大クラブの練習場にくらべれば小ぢんまりしているが、国民総生産(GNP)で日本の1/140、国民所得一人平均で日本の1/3に足らない。しかも、農業国で、鉱物資源に乏しく、石油の値上がりによって大きな打撃をうけているこの国の経済のなかで、なお、これだけのスポーツの蓄積があるとは……。


ムヒカ監督とマテ茶

 36歳の、だいぶハラの出てきたムヒカ監督は、挨拶のあとで、今日は食事をしながらモンテビデオの記者たちや、メキシコのトレーナーたちと、おしゃべりすることになっているんです。わたしはフランスにいたのでフランス語はいいが、英語はダメだから、プラボー氏の通訳がいる。だから、あなたのインタビューは食事の前に…と。
 若いが、落ち着いた、人なつこい笑顔をみると、メノッティが、気持ちがやすらぐと、ここへ来るのもわかる。

 モンテビデオ市西北300キロ、バイサンドゥ市に近いカサブランカ。大河リオ・ウルグアイの左岸の小さな町に生まれたフアン・マルチン・ムヒカは16歳でプロにはいり、16歳でナシオナルに移籍、以後7年間このクラブで働く。28歳からフランスへ渡り、リール、ランスの両チームでプレーし、コーチの資格を取り、ユースの指導もした。34歳のときウルグアイに帰り、1年間1部リーグのデェフンソールでプレーし、昨1980年2月、ナシオナル・クラブとコーチの契約を結んだ。クラブは、その年1月、不法な選手移籍の問題で、会長が辞任し、改選によってイオッコ現会長が就任、大改革にのりだしたところだった。

 現役選手のときにはウルグアイ代表として43回プレーした彼は、1970年のメキシコ・ワールドカップに攻撃的な左FBとして出場した。この大会はペレ、トスタン、クロドアウドのあのブラジルのスーパーチームの優勝で他のチームの影は薄れているが、ウルグアイはディフェンシブ・サッカーで準決勝に進み、ここでブラジルに1−3で負け、3位決定戦で西ドイツに0−1で負けている。ウルグアイにとっては大会第1戦でFWのローチャが負傷して以後欠場したのが痛かったという。
 ムヒカはこの全6試合に出場し、対イスラエル戦では得意の攻撃参加で1得点を記録し、ブラジル戦ではジャイルジーニョをマークした。

 インタビューを始める前に、彼は、マテ茶をすすめてくれる。ブエノスアイレスでは小さな“ひょうたん”をくり抜いた茶器(マテ)はたくさん売っていたし、銀製の高価なのもあったが、実際に町の中で吸っている人はほとんど見かけなかった。彼はジェルバ(YERBA=茶の葉)を入れ、テルモ(魔法ビン)から熱湯を注ぎ、細長い吸い管(ボムビージャ)をかしてくれた。日本のお茶に似ていて、もっとニガ味が強い。暑さでぼやけた頭も、スッキリする感じだ。
 牛や羊を追って暮らすガウチョが好んで飲むが、彼らには葉緑素の欠乏を補うことになっているらしい。


昼食時の大おしゃべり会

 ヨーロッパ流のマンツーマンとリベロの採用と、そのマンツーマンをやりとげられる体力の強化が、まず、このチームの課題だったと彼はいう。それには、1977年から3年間、ウルグアイのユースのトレーナーだったヘスト氏が彼と同日付で契約し努力したのが成功した。などと話が進むうちに、隣のテーブルで選手たちの昼の食事が始まった。コパ・デ・オロの代表に入っている6人を除く1軍の全員、エスパラゴ主将やブランコ、ピカなどの顔がみえる。エスパラゴは1970年ワールドカップのときには控えのCFで、準々決勝の対ソ連では延長戦になってから出場し、決勝点を挙げているし、74年は、当時スペインのセビリアにいたが、代表に呼び戻され、ワールドカップに出場している。今は下り目のハーフだ。

 しばらくして、テーブルから「ハッピー・バースデー」の合唱が沸きおこった。黒人のコックさんが大きなデコレーションケーキを運んできたのだ。
 ムヒカは言う。
「ほれ、あそこに小柄なのがいるでしょう。あの子は4部から、体力トレーニングのために、ここしばらく1軍へ来ているんです。それがきょう18歳の誕生日なんですョ」
 テーブルのすみで、かわいい顔の“4部”が、ホオを赤くしていた。

 ムヒカの管理下に250人のプレーヤーがいる。1部20人、3部(2部とはいわない)15人(21歳以下)4部20人(19歳以下)5部20人(17歳以下)6部40人(15歳以下)と、1部以外は年齢別に分かれ、トップチームは勿論プロ、2部はセミプロ、3部以下は勝ち試合のボーナスもないアマだが、試合経費は全部クラブ持ちの、いわゆる契約プレーヤーとなる。このほかに、別に14歳以下がいっぱいいて、彼らは14歳になると契約プレーヤーになりたくて1,000人くらいが毎年テストを受ける。
 各部にはもちろんコーチとフィジカルトレーナーが一人ずついるが、全体の責任はムヒカ監督が持つという。もちろんスカウトもいて全国をまわり、いい素材を集める。自然に選手が育つといわれた南米ウルグアイで、すでに少年からの育成システムがきっちりできているのにもう一度驚くことになった。

 黒人シェフのおいしい料理とワインで、昼食は大おしゃべり会となったが、そのにぎやかにとび交うスペイン語のなかで、わたしは彼らの、ゆっくりとした着実な蓄積を反すうした。そして、彼らを東京に迎えるわたしたちには、そのビッグ・イベントの後に、何が残るか…をしばらく考え込んだのだった。

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