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モンテビデオの年の暮、アルゼンチンと西ドイツの対称的な練習に“サッカー”の違いを見る

 パサレラがいた、フィジョールがいた、ケンペスとマラドーナがいた。
 1980年も押しせまった12月31日、午前10時30分、エスタジオ・センテナリオでのアルゼンチン代表チームの練習……わたしは久しぶりのタレント群を目で追っていた。

 冬の日本から、真夏の南米へ。しかも、こんどは、大会本部からのアクレディテーションが遅かったので、すべての準備が遅れ、ホテルの予約もできないままに飛んできた。12月29日午後2時45分、つまり、わたしの56回目の誕生日にブエノスアイレスに着き、予想以上の暑さと湿気に、汗をかきながら、エセイサ空港(国際線用)からアエロパルケ(国内線とウルグアイ線)へタクシーを走らせ、午後5時30分のウルグアイ航空プエンテ・アエロ(空の橋)機でモンテビデオへ。その夜はペンションに泊まり、30日朝パルケ・ホテル(大会のプレス担当が用意してくれた)に移って、市内プレスセンターで取材証と入場券を受け取り、午後5時からの開会セレモニーと6時からのウルグアイ―オランダ戦(2−0)…あっという間に2日間が過ぎていた。


マラドーナのスワーブ

 4−2で体ならしのあと、メノッティ監督が全員に少し強い口調で指示を与える。今度は両側に分かれてドリブル、2、30メートルドリブルし、10メートルくらいのパスを向かい側の相手に渡す。ただそれだけのことだが、2タッチから3タッチの際のターン、ボールタッチ、スピードの変化のつけ方の見事さはどうだ。
 マラドーナは、ターンのさいに、ヒザを曲げ、深い芝を踏み締めるように…まるでスキーのターンの基本のように、力強く、そして大きな動作と、そのあとの鋭いとび出しによるスピードの変化が面白い。アルディレスは例によって、直線的にピューッと持ち出す。ケンペスはターンの際に、慎重に、足がどれだけ耐えられるかテストしながら…。ディアスはスワープというより、大きなジグザグで……。一人ひとりが個性的な持ち方とターンをみせたあと、向かい側の相手にボールを渡すときに、ピシッと音の出るような強い球を送る。それを受け手は、ワンタッチで、ピタリと支配下に置いてスタートする。
 試合前日の、ほんの慣らす程度のこの単純で短い練習のなかに、彼らのサッカーに対する考え方、つまりドリブルと短いパスが、攻撃の基礎になっていることが表れていた。

 自分が手にかけ、育て上げたタレントたちを見つめながらメノッテイは、ときにケンペスに足の調子を尋ね、マラドーナに声をかけ、バレンシアを呼んで話をする。記者会見のときに取っつきにくく見える彼だが、弟子たちと語るときは家族のようだ。79年夏に来日したケンペスが「メノッティが呼んでくれるなら、もちろん代表に加わって82年ワールドカップに出たい。しかし、今の選抜の仕方を見ているとボクを呼んでくれるかどうか…」と言っていた。そのせっかくのチャンスに古い傷が痛むとは……。
 1時間の練習のあとでメノッティの記者会見。アルゼンチンやウルグアイの記者とのやりとりは活発だが、英語の通訳なしでこちらはさっぱり、英国人記者は大むくれだった。


止まらない西ドイツ

 午後、同じグラウンドでルムメンニゲやハンジ・ミュラーが疾走、西ドイツ代表はまったくアルゼンチンとは対称的だった。同じように4対2の体ならしのあと、はじめ小さなゴールを4つおいて(正規の広さより少し小さなフィールドで)9人ずつのチームが(相手の2ゴールへ)攻めあった後、今度は6つのゴールを使う。カルツ、ルムメンニゲ、ミュラーらの組とボンホフ、ブリーゲルらの組は自分のボールにした後、すぐ、どれか一つのゴールを攻めにゆく、そこを相手が固めるとみたら、今度は逆サイドの他のゴールへ……。空いているスペース、ノーマークのゾーンを探し、そこへボールを振って、味方が走り込む。オープンへ、オープンへの動きは止まることなく(止まりそうになるとリベック・アシスタント・コーチの声が響く)繰り返された。
 カルツや、ルムメンニゲやブリーゲルら、長身選手の力強い疾走と、疾走しての的確なボールタッチ、つぎの展開のためのオープン指向のパス、そして、小さなゴールの前での、柔らかい駆け引きと、強く低いシュート。
 間近で見る彼らの練習に、前日の開幕試合の物足りなさも、しばらく消えてしまうのだった。


“戦艦シュペー号”

 いい選手のプレーを見たあと、ご機嫌になって「7月18日通り」をショッピング。『ナシオナル永遠に』のレコードを買い、ホテルまで歩いて帰る。夜店が出て、ロウソクや花火を売っている。パルケ・ホテル・カシーは文字どおり公園のそばにあり、海岸通りに面していて、カジノもある。市営で室料は34ドルと高くはなく、古い建物で天井の高いのは夏場にはいいが、食べものはカジノためのスナックだけ。そのホテルに近いレストランでは、ずらりと子ブタを並べて丸焼きの最中。すぐ隣の食料品店ではシャンパンにリボンの飾りをつけて並べたて新年に備えていた。
 部屋の窓を開けると浜辺を歩く人、泳ぐ人がみえる。その波の音を聞きながら、この日のメモをつける。つけながら“戦艦シュペー号”も12月だったと思い出す。第二次大戦のラプラタ河口沖海戦(1939年12月13日)で傷ついたドイツの小型戦艦が、中立港モンテビデオに逃げこんで修理した後、優勢な英艦隊が待ちかまえると伝えられたラプラタ河口へ再び出航した。
 が、再度交戦することなく、この沖合いで自沈したのは12月17日。丘にあがって、その模様を見た市民もずいぶん多く、劇的な最後は世界中に大きな衝撃を与え、映画にもなった。
 以来41年、最も遠い国日本でそのニュースに心打たれた若者が、いま、こうして、ラプラタの岸で新しい年を待つ…。
 それもヨーロッパ最強の西ドイツとワールドカップ・チャンピンオンのアルゼンチンという、世界の関心を集める“平和な戦い”を見るために。
 真夏の大晦日は花火の音で過ぎていった。

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