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ホテルを借り切り、ディスコを閉鎖したメノッティの入念さにアルゼンチンの意気込みを見る

ウルグアイの国際橋

「アルヘンチーナ!」「アルヘンチーナ!」
 1981年元旦。朝のうち静かだったモンテビデオの海岸通りも、陽が昇につれてにぎやかになる。そのなかで、アルゼンチンの国旗をつけ、警笛を「パー、パー、パッパー」と鳴らし、アルヘンチナを連呼して駆けぬけてゆくのが増えた。
 彼らはモンデビデオ西北300キロのペントスにある“国際橋”でウルグアイ川を渡ってくるらしい。1930年の第1回ワールドカップのときアルゼンチンのサポーターたちは、ブエノスから船でモンテビデオ港へ来たものだが、いまは貸し切りバスや車で大迂回をしながら陸地でやってくる(もちろん、ブエノスから飛行機で50分。あるいは水中翼船で対岸のコロニア、そして定期バスでモンデビデオ=177キロという便もある)。
 ついでながらウルグアイの国名は正式には「ウルグアイ東方共和国=レプリカ・オリエンタル・デル・ウルグアイ」つまりウルグアイ川の東側にある共和国……そしてウルグアイというのは原住インディオの言葉で大きな流れ=大河=の意味らしい(パラグアイも同じく大きな流れの意とか)。ある時期には、この地域一帯をパンダ・オリエンタル(東方の回廊)、とも呼んでいたし、いまでも、詩などでは祖国を「オリエンタル」でウルグアイ国を表すことも多い。
 そのオリエンタルへ、やって来たアルゼンチンのサポーターは2万人。わたしがエスタジオ・センテナリオにはいったときには、スタンドにセレステ(空色=つまりアルゼンチン国旗)が林立し「バモス(ゆけ)・アルヘンチーナ」への歌声が満ちていた。


カラー印刷のプレゼンテーション

 プレスルームでアルゼンチン代表チームのパンフレットをもらう。カラー印刷『サッカー・マガジン』大の12ページ。キャノンのコピー・カウンターではアルゼンチン代表チームのスケジュールと、メンバー表をくれる。
 この大会では、ヨーロッパ選手権決勝大会と同じでキャノンがカメラとコピーの公式サプライヤーになっていて、日本人の係員も出張してきているのでサービスは良い。ただし、コピーの方はイタリアのメンバーは氏名だけ。西ドイツは氏名と生年月日と背番号。ブラジルは氏名と生年月日(一人は生年月日も抜けている)といった調子。どうも各国から出てくる形式がまちまちらしい。その中でアルゼンチン代表チームの分は、はじめから、氏名、背番号、ポジション、所属クラブ、生年月日、体重、身長、国際試合出場回数とすべてが、きっちりそろっている。

 そのメンバー表をみると、選手18人、役員12人。役員はメノッティを筆頭に、フィジカル・トレーナーのピサロッティ、アシスタント・コーチのポンシーニ、ドクターのオリパ、広報担当のリベラ、マネージャーのD・モウレ、副マネージャーのC・ゴンサレス、メノッティの秘書H・ドレー、用具係のアンドレ・ドカンポ、技術視察員が3人という顔ぶれ。選手は11月23日にマルデルプラタに集結、ケンペス、アルディレス、ベルトーニの外国組も12月22日に合流していた。アルゼンチンの新聞によると、メノッティは、合同練習の日数が少ないと言っていたそうだが、まず、コパ・デ・オロに参加するなかでは、ウルグアイは別として、もっとも入念な準備をしたはずだ。
 彼の配慮は、12月30日のモンテビデオ入りにもあらわれ、空港到着は16時30分、つまりほとんどの記者はセンテナリオの開会セレモニーに行っている時間を選び、空港でのインタビューもなしで(待ち受けた少数の記者はインタビューできなかった)ホテルに入っている。


貸し切りホテル・オセアニア

 宿舎はゴルダ岬にある3階建ての30室、小ぢんまりしたホテル・オセアニア。あたりはむかし尼僧院だったところで、眺めがよくて、静かなのがとりえ。夏はなじみの避暑客がやってくるが、今度はアルゼンチン代表チームの貸し切り。1階のディスコも営業せず、AFA(アルゼンチン・サッカー協会)はこのため6,000ドル(約120万円)を別途にホテルに払う。
 部屋割を調べた記者がいて、それによると、2階の14室はすべて役員、メノッティは応接間つきの部屋。チームの用具だけで3室をとり、選手たちは3階で2人1室。ピロッティ・トレーナーのマッサージ室や、ミーティング室もこの階、マラドーナは79年ユースの仲間パルパスと同室、ケンペスはアルディレス、バサノラ主将はベテランのガジェゴと。ディアスはペルトーニと。マラドーナは体は小さくても寝相が悪くてダブルベッドを用意したとか。食堂は1階、地下には卓球台やテレビのある娯楽室も設けている。
 こんな話を聞きながら、メノッティらしい細かい気の配り方とそれをバックアップするアルゼンチン協会の力の入れ方に感心しながら、西ドイツ代表チームがくれたメンバー・リストの小さな4ページを見る。対外試合成績など記録はきっちりしているが、選手個人については、まるで素っ気ない。78年ワールドカップや80年欧州選手権ではプレスへのサービスがとても行き届いていたのに……。万事パーフェクトを求めるドイツにしては珍しいことだった。

 前日、彼らの素晴らしい練習を見、デアパル監督にも声をかけ、相変わらず落ち着いたにこやかな顔を見ているにも関わらず、わたしは、キックオフの笛が鳴るまで、メンバー表という小さな準備にこだわっていた。

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