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大会中のコーチ会議。イタリア人コーチが語った「フィジカル・トレーニングはあまりやらない」

コーチ会議で…

 2月15日から3月8日までエクアドルで行なわれた81南米ユース選手権大会でウルグアイが優勝した。モンテビデオから送られてきた『エル・パイス』紙はアルゼンチンを最終戦で5−1で破ったことを伝えていた。フロントページのカラー印刷で“セレステ”(空色)のユニホームの躍動をみると、3ヶ月前コパ・デ・オロで知った彼らの熱情を懐しく思い起こすのだった。

 オリエンタレス ラ パトリア
   オ ラ トムパ
 リベルタ オ コン
   グロリア モリール……
「オリエンタル(ウルグアイ)は独立国でなければならぬ自由でなければ名誉ある死だ……」

 1981年1月2日、モンテビデオ市の繁華街、7月18日通りに近いビルの一室、コーチ会議を覗きに行ったわたしは国歌の合唱で始まった少年少女の歓迎レセプションに驚くことになる。
 ウルグアイをはじめ南米の各国からコーチが集まり、コパ・デ・オロ参加の各国監督コーチとのミーティングを行なう、というプレスルームでの提示があり、この日の講師はベアルツォット(イタリア)とデアパル(西ドイツ)とある。
 翌日(1月3日)にウルグアイとの対戦を控えたイタリア・チームの監督が出てくるはずはないと思ったが、まあ、どんな質疑応答があるか覗くのも面白かろうと、行くことにする。
 会場へ着いたら、すでに50人ばかりコーチが集まっているのはいいが、予想したとおり、ベアルツォットもデアパルも来られないから、イタリア代表のマルチネス・コーチとACミランのジャンニ・リペラ、そして、かつてのウルグアイの名選手で、いまスペインでコーチをしているサンタマリアが代わりに出席するという。


少年育成とフィットネス

 ちょっとアテはずれのコーチ会議傍聴となったが、楽しかったのが開会のセレモニー。
 11人の少年少女がセレステのユニホームを着て、頭にヘアバンドそれに鳥の羽根をさす。つまりコパ・デ・オロの公式マスコットのマーク「エル・チャルーア・フッポリスタ」(チャルーア族のフットボーラー)のスタイル。別に10人ばかり少年少女が、開拓時代のコスチュームをつけて現れ、それが、まず、冒頭に記した国歌を合唱したのち、いくつかのフォルクローレ(民謡)や寸劇を披露し、最後にボリュームたっぷりの司会のオバさまのスピーチでしめくくった。そのスピーチのなかに「レコンキスタ」(覇権奪回)が強い調子で訴えられた。

 マルチネス・コーチへの質問で興味をひいたのは、ほとんどが少年育成の組織についてと、フィジカル・フィットネスについてだったこと。
 ここに集まったコーチの多くが青少年担当だからだろうが、それにしても「自然にプレーヤーが育つ」と考えられていた南米のウルグアイで、少年育成の組織論に、これほどの関心が集まるとは……、そしてまたフィジカルな点に、これほど注目しているとは……。
 マルチネス・コーチの答えのなかで代表チームの準備にふれた部分があり、それによると、82年ワールドカップの予選に勝ってスペインの本大会に出場するときは、大会前に25日間の合同練習するとのこと。それは、
 (1)まず10日間でフィジカルテスト(健康診断、体力検定、分析)とコンディショニング
 (2)次の15日間で、テクニックや戦術についてのオリエンテーションをし、選手に浸透させ、コーチはこの間の練習で選手たちの最終チェックをし、欠点と長所を再確認する
 ということだった。

 イタリアの少年育成は、もちろん、各クラブでやっているが、14歳以下、16歳以下、18歳以下の年齢別で、国際試合のための選抜チームを編成していると…。
 またフィジカル・トレーニングについてはイタリアでは、あまりやっていない…。この答えには、場内は意外といった雰囲気だったが、わたしは、カウジオ、グラチアーニ、ベテガといった第一線のスターが、30歳にならぬうちに急激に体力的な衰えをみせる原因が、あるいはそれにあるかもしれない、などと考えてみた。


ウルグアイ・サッカー100年史

 3時間に及ぶ会議のあと、町をぶらついて書店に入り、フットボールのアルマナックはないかと聞いたら、出してくれたのが、なんと『100 ANOS DE FUTBOL』(フットボール 100年)1巻約30ページのシリーズもの全27冊そろえて製本した650ページで、70年メキシコ・ワールドカップの記述が最後になっている。つまり1870年代にウルグアイにサッカーが導入されてからの100年史だった。
 ホテルに帰ってその本をパラパラめくる。もちろんスペイン語だから、こちらには分からない部分の方が多いが、第1巻『ウルグアイ・サッカーの黎明期』には1889年にすでに、モンテビデオとブエノスアイレス選抜の対抗戦が行なわれたとある。
 まだナシオナル・クラブも、ペニャロールも創立されず、モンテビデオのリーグも結成される以前のことだ。
 その最初の選抜チームの名前が書き込まれているページを見ながら、私はアルゼンチンという大きな隣国、ブエノスアイレスという南米第一の大都会と張り合ってきたウルグアイ人とモンテビデオ市民の歴史を考え、彼らにとっての最大のプレゼンテーション(表現)となったサッカーの歩みに思いをめぐらした。
 コーチ会議の開会にも国歌を歌い、開拓時代を偲び、自分たちで切り拓いてきたこの土地と町のよさを強調するここの人たちの意識が、次の日(1月3日)の第2戦、対イタリアにどんな風に表われてくるのか…。5日間の滞在で、自分の気持が次第にウルグアイに傾いていくのが不思議だった。

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