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日本大使館の正月パーティーで会った老ペニャロール・ファンはウルグアイ・プロの実情を語った

真夏の新年交歓会

 連休明けの週末、急に気温の上がった大阪の街路で、強い日差しを受けて、ネクタイをしめた襟に汗をかきながら、ふと、あのときも、こんな暑さだったナと思いだした。

「新年おめでとうございます」
 1981年1月3日の昼下がり、モンテビデオ市リンコン街487にある日本大使館。大使主催の在留邦人新年交歓会は、なごやかな語らいが続いていた。
 真夏の太陽は遠慮なく照りつけていたが、小さな花壇のあるテラスには、広い芝生の庭を吹きわたってくる風がさわやかだった。
 ウルグアイに住む日系人は400人ばかり。郊外で花作りを仕事とする人が多いとか。わたしの友人(神戸一中で二年後輩)の山田重志氏のように市中で商店を経営する人もいる。
 この日集まったのは4、50人。なかに1939年のあのドイツ小型戦艦グラーフ・シュペー号の自沈を目撃した久保田重遠さんもおられたし、そのシュペー号事件の翌年からここに住み、ペニャロール・クラブの名誉会員となったサッカー好きの梅木一男さんにもお目にかかった。


ペニャロール・ファンの梅木さん

 ブラジルやアルゼンチンのように日系の多いところでも2世、3世はともかく、1世のサッカー・ファンは珍しい。
 64歳の梅木さんは、昭和8年(1933年)にブラジルに入植し、のちにモンテビデオに移った。住みついたところが鉄道の機関庫の近く。あたり一帯をペニャロールと呼び、クラブ・アトレチコ・ペニャロールの本拠でもある。はじめ鉄道の英人従業員のクラブとしてスタートし『ウルグアイ中央鉄道クリケット・クラブ』と称していたこのクラブは、1900年のリーグ創設時から参加している。英人主体から、次第にウルグアイ人が主流を占め1914年に『ペニャロール』と名を変えた。ナシオナル・クラブとともにウルグアイを代表する二大勢力として、その黄色と黒(オロ・イ・ネ・グロ)のユニホームはナシオナルのトリコロル(3色…赤白青)と張り合っている。

 人口280万のウルグアイ、首都モンテビデオで140万人だから、プロ・サッカーといっても1部リーグ14チームの試合が常に多くの客を集めるわけではないし、各クラブの競技場も小さいが、ペニャロールとナシオナルだけは別格で、両チームは毎週、土曜、日曜を交互に市営のセンテナリオ・スタジアム(7万人)を使用する。両チームのホームゲームは当然だが、他のチームのホーム(両チームのアウェー)であってもお客が入るためだ。


経済力とプロ・サッカー

 梅木さんの自宅のすぐ前に、もとペニャロールで働き、いまミラマールというクラブのプロ選手がいるが給料が安くて、家族を養うのに両親から援助してもらっている…と。
 そういったウルグアイの社会の経済力ではプロになっても、大金を稼ぐわけにはゆかないので、いい選手は海外へ流出してしまう。これまで8度の南米ジュニア大会のうち、ウルグアイは6度優勝している。にもかかわらず、ここしばらくばかり代表チームがパッとしない理由は、すべてそこにある。
 今度は、コパ・デ・オロという大会を設立し、大会まで選手の海外移籍を抑えることにした。それが大会の好成績につながれば……。
 そうそう、代表チーム18人のうちペニャロールとナシオナルは7人ずつ。監督のマスポリは、1950年のワールドカップでリオデジャネイロでブラジルを倒して優勝したときのGK。当時は彼を含めてペニャロール勢がレギュラー11人のうち7人を占めていた。

 この日午後6時からエスタジオ・センテナリオで、私は平均月収1,500ドル(約30万円)のウルグアイ選手が、札束の乱れ飛ぶイタリア・リーグのスターたちと互角に戦い、ついに勝利を握るのを、6万8,000の観衆とともに見つめていた。
 ベアルツォットの「アズーリ」(青の軍団=イタリア)は、相変わらず洗練されたプレーで、そのボールタッチやランニングは軽快で、スマートで、まさにプロのひとつの芸を見る思いだった。ましてこの日はアントニョーニが好調で、彼のドリブルと中距離パスは、いっそう展開を華やかにしていた。しかしウルグアイはイタリアの華麗な技巧に耐え、幸運のPKとピクトリーノのシュートで2点を奪い、決勝進出を果たしたのだった。
「ウルグアイ・カンペオーン」と歌いながらひきあげる観衆に混じって、私は大使館での梅木さんとの会話を反芻した。「育ってくる選手を海外へ出さないようにさえしたら、なんとか国際的にもいいところへいけるんです」…選手の素質や練習法などというのとはまったく別のところに、この国のサッカーの問題点があるようだった。
 その不思議さとともに、どこかやぼったく、土のにおいのするような、それでいて肝心のところできちんとやれるウルグアイ人のプレーが、アルゼンチンやブラジルや西ドイツなどと違った魅力となって私の心を捉え始めるのだった。

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