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王国ブラジル復活。テレ・サンターナのチームが見せたブラジル・サッカーの底知れないタレント性

テレ・サンターナのブラジル代表チーム

 5月中旬の欧州転戦3連勝でブラジル代表チームの評価は一気に高くなった。早速ロンドンのブックメーカー(賭け屋)は82年ワールドカップの本命にブラジルを挙げ、賭け率を5−2にしたという。ロンドン、パリ、シュツッツガルトからの詳報を読みながら、わたしは、コパ・デ・オロでみた「ブラジルらしいブラジル代表チーム」を回想した。そしてテレ・サンターナ監督と彼らが、どのようなチームとなり、どんなレパートリーを備えてスペインへ乗りこんでゆくかを想像しながら、心が浮き立ってくるのだった。

 テレ・サンターナと彼のチームをはじめて見たのはコパ・デ・オロ第2組リーグの第2戦アルゼンチンとの対戦(1981年1月4日)だった。
 78年ワールドカップのメンバーから4人を残しただけで、新しい「攻撃的」代表チームを作ろうとしていたブラジルだが、組み立て役ジーコを負傷で欠いていたし、新しいストライカーのソクラテスも2、3日前まで、出場できるかどうか危ぶまれていたほど。チームとしての合同練習期間も20日ばかり。78年ワールドカップ優勝メンバーに79年ワールドユース優勝の俊英を加えたメノッティのチームに比べるとテレ・サンターナのチームは“未完”の不安と“未知”の魅力が同居していた。


“タレントの宝庫”に驚嘆

 試合の結果は1−1の引き分け、メノッティが監督になってからアルゼンチンは一度もブラジルに勝てない(3分け5敗)というジンクスが残って、わたしは、チーム、あるいは個人の“相性”の不思議さと同時にブラジルの層の厚さに強い印象を受けた。
 DFのオスカール、MFのバチスタ、トニーニョ・セレーゾらの78年組と同じように、どれもが粘着力のあるボールタッチ、ボールキープをするだけでなく、相手の攻めに対するポジションの取り方のうまいこと。たとえば新顔(わたしには)のエジバウド、ジュニオールの右、左のDFの攻め上がるときの大胆な侵入。ここ何年かのブラジル代表の特色である後方の強さを残しつつ、同時にチーム全体が“前へ”“攻撃する”姿勢を持ち、ボールキープと仲間の強調でスペースを作り、広げてゆこうとするところ……しかも、それがジーコもおらず、ファルコンも欠いていて(ローマにいる)も……やってゆけるところは、さすがにブラジル。“タレントの豊庫”アルゼンチンでさえ、いまなお代表チームはウイング・タイプを欠き、ヘディングのタレント不足を嘆く声もあるのに……、“登録プレーヤー450万人”の西ドイツでさえ、代表のレギュラー級と、控えの間に技術差が大きいのに……この巨大なサッカー王国は、古くから現在までのチーム構成に必要なあらゆるタイプの、高水準の選手をそろえていた。しかも、彼らが、攻撃のためのスペースをつくり、そこへボールを出し、走り込む術を心得ていることが二重の驚きだった。

 口ヒゲをつけたセレーゾの大きな動き、ゼ・セルジオの左サイドのドリブル、長身ソクラテスのゆっくりしてみえるが、広いリーチを生かしたキープと、右への斜行、イジドロの軽妙で、相手をカッカッさせるドリブル……。
 そのイジドロが、タイムアップの笛のときに、高いボールを受けようと上を向いていたバレンシアの足を蹴飛ばした。それを見たマラドーナが、猛然とイジドロに飛びかかり、双方のイレブンが入り乱れてちょっとした乱闘になった。多勢の係員が割って入って、たいしたケガもなかったが、飄々としたプレーをするイジドロのこんな“暴行”、マラドーナの“怒り”に両国サッカーの対抗意識がのぞいていた。


メノッティの苛立ち

 試合のあとでいつもの記者会見のルーム(地下の)へ下りてゆこうとしたら、階段で止められる。メノッティがアルゼンチンの特定の記者としか会わないと言っているという。「そんなバカな」と役員とやり合う記者やカメラマン。だが、役員は折れる気配はなく、ガードは固い。
 メノッティには不満な結果。そう、第1戦に比べると、彼のチームは覇気が乏しく動きも鈍かった。それは西ドイツという大敵に勝ったあとの一種の弛緩かも知れないし、兄弟づき合いのウルグアイで試合しながら、土地の人たちの声援がブラジルに大きく傾いたスタジアムの空気のせいもあったかもしれない。
 実際、モンテビデオへ来て、ここの人たちのブエノスアイレスとアルゼンチンに対する反発の強さには驚かされた。それはモンテビデオ市がブエノスアイレス市長によって設立されたという由来。ラプラタ連合のころからブエノスがこの地方の中心であったという歴史的な関係から生まれたものかも知れないが、その対抗意識がウルグアイ人をブラジルの声援にかりたて、ブラジルの“復活”に力を借したともいえる。81年1月4日は巨人がついに立ち上がった日として、80年代サッカーの記念すべき日になるかもしれない。

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