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迫力の決勝戦。勝ったのは、やはり最も周到な準備をしたチーム、地元ウルグアイだった…

 ワールドカップの南米第2組予選(コロンビア、ペルー、ウルグアイ)は、ペルーの決勝大会進出が決まった。ウルグアイにとっては8月23日モンテビデオでペルーに敗れた(1−2)のが痛い。7ヶ月前にオランダ、イタリア、ブラジルを倒してコパ・デ・オロのチャンピオンとなったマスポリ監督と彼のチームが、同じセンテナリオ・スタジアムの7万観衆の前でペルーに砕かれるとは……南米のサッカーは、まさに「オーパ」の連続だ。


50年前の選手が始球式

 わたしのオーパ・ラプラタは1981年1月10日、コパ・デ・オロの決勝を迎える。
 その日の午後4時、空は高く、センテナリオの最上階は風が吹き抜けていた。記者席はメインスタンドの2階なのだが、3階の方が見易い。いつもは余裕があるのに、さすがに決勝、指定座席券を持った人が続々入ってくる。そこでわたしは、カベを越え、各クラブ関係者席の一画に入り込み通路に座る。記者席に机が1/3しかないのもラテン的なら、こういう一般席の通路にわたしが陣取っても、係員が何とも言わないのもウルグアイのよさだろうか。

 午後5時に高校生バンド、次いで軍楽隊の演奏行進。セレモニーはすべて78年ワールドカップ、アルゼンチン大会を模しているが、スタンドの雰囲気はリバープレートの決勝のあの重苦しい緊張感に比べると、なんとなく明るい穏やかだ。ワールドカップとコパ・デ・オロの違いだろうか、冬と夏の違いだろうか…いや相手がアルゼンチンでなくブラジルだからか…。
 そのアルゼンチン代表チームはすでに8日にブエノスへ帰っていた。空港の記者会見でマラドーナは「ウルグアイには二度とゆく気はしない」と言ったとか。

 ウルグアイ、ブラジル両チームが入場し、国歌を奏したあと、3人の老人がフィールド中央に立つ。1930年第1回ワールドカップに出場したペルーのFBマキジョン、ブラジルのGKベロソ、ウルグアイのFBマスチェロニ。彼らは両チームの選手と握手をかわし、マスチェロニが始球式のキックオフをした。


2枚のウイング

 前半はブラジルが圧勝した。3日前に西ドイツに大勝した後半のリズムそのままに、どちらかのサイドを空けておいて、そのオープンスペースへ走り込んでくる…相手の守りを開かせてその内側へ入ってくる…という攻撃の妙をみせた。左サイドのゼ・セルジオのドリブルには両チームのサポーターが沸くが、彼によってウルグアイのFBラインが外側へ開くと、その内側へ左FBのジュニオールが侵入してくる。チャンスとみればDFラインからルイジーニョもやってくる。昨年夏のヨーロッパ選手権で西ドイツが左、右に各2枚のウイングを持つ攻めで成功したが、今回のブラジルも、外側のオープンスペースを使う(そこへ上がってくる)。選手が複数でいるのが面白い。その一人がたいていFBであるのも似ているが、ちょっと違うのは、西ドイツはそのスペースを、音をたてて疾風のように入ってくるのに対し、ブラジルは、ふわふわ、あるいは、じわじわと侵入してくることだ。

 ただし、この日のブラジルは見事な展開で、相手を崩しながら、精気に欠けフィニッシュの一撃が不正確だ。むしろ前半2度しかなかったウルグアイのチャンスの方に、きわどいシュートが生まれていた。
 そして後半5分にラモスのシュートがDFに当たったリバウンドをパリオスが決めてウルグアイがリードする。スタジアムの気分は一新し、ブラジルは眠りから覚めたように猛烈な攻撃を続けソクラテスがトリッピングで倒されたPKで同点にする。それから約20分間の攻防の面白かったこと。しかし、ブラジルは徐々に動きのスピードが落ち、ウルグアイのラモスの速さ、ルベン・パスの力強さが目立ってくる。そして、後半35分ペナルティエリア右外側のFKをラモスがドライブのかかったカーブ球をゴール前へ、右ポストのところでルイジーニョとウルグアイの誰かがもつれるような間を、ボールはすり抜けゴールマウスへ。そこにビクトリーノがいて、バウンドしてくるボールを頭でとらえた。


体力トレーニングの成果

 暮れなずむなかで、大統領がロドリゲス主将にトロフィを渡す。カメラとファンの要請にこたえてロドリゲスは何度も何度もさしあげた。抱き合って喜ぶ役員たちを見ながら、ウルグアイ人のサッカーにかける情熱の高さと根の深さをあらためて思った。
 それにしても、オーパ、またオーパのこの大会も、終わってみれば、もっとも周到な準備をし、もっとも長期の合同トレを行なったウルグアイが勝つ結果となった。
 マスポリ監督は記者会見で成功の因…体力トレ、戦術、気力…を語りながら、1950年に自らGKとして優勝したリオの大会との比較を訊ねられたとき、「50年の優勝はすでに『歴史』だから比べることはできない。我々にとっては、コパ・デ・オロの優勝は一つのエポックではあるが、これで82年ワールドカップに進出する保証を得られたわけではない。予選を勝ち抜くには、よりよい準備ができるかどうかだ…」と語った。

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