賀川サッカーライブラリー Home > Stories > >アラスカ上空、大戦とサッカーとスペイン82でのブラジル、西ドイツ、アルゼンチンを想う

アラスカ上空、大戦とサッカーとスペイン82でのブラジル、西ドイツ、アルゼンチンを想う

戦争さなかのサッカー

『勝利への脱出』というアメリカ映画の試写を見た。第2次大戦中、ナチ・ドイツに捕らえられた連合軍捕虜たちの、収容所からの脱走計画とサッカーの試合をからませ、捕虜選抜チームとドイツ代表チームの対戦で捕虜チーム側に、ペレやアルディレス、ボビー・ムーア、デイナなどが出演している。
 野球やアメフト、あるいはテニスを題材にしたアメリカ映画は多いが、これまでサッカーをとりあげることはなかった。何年か前の『エリックの青春』で不治の病に冒された主人公がサッカー好きの学生という形でとらえられたことはあるが、今回の『脱利への〜』のようにサッカーの試合そのものが、映画の大きな部分を占めまたストーリーのポイントとなるのは、初めてだ。
 シルベスタ・スタローンやマイケル・ケインなどの主役もいいし、映画という点でもとても面白い。12月中旬か下旬に封切られるそうだから、きっと評判になると思う。

 もっとも、試写を見た人のなかに、こんな感想があった「戦争中に、捕虜チームと占領国チームが試合をするというのは、いくら映画でもムリな設定じゃないか」――。
 その問いに対し、わたしは、サッカーは、敵味方、国境、階級を問わず試合をしてきた競技であること、第一次大戦のソンム戦線で、クリスマスに、英・独の両軍がにらみ合っていた塹壕から這い出してサッカーの試合をした実話もある――と答えた。

 映画とサッカーを語ればキリはない。しかし1943年ごろの戦時を舞台に、1980年に製作された『勝利への脱出』は、またわたしの、『オーパ・ラプラタ』にも無縁ではない。捕虜チームが晴れの試合をするのがパリのコロンブ・スタジアム(1943年だからパリはナチ・ドイツの占領下だ)との想定になっていた。コロンブの名は、1924年のパリ・オリンピックで、われわれの記憶に残るところ。その列代のコロンブ・スタジアムで、ウルグアイ代表がオリンピック・サッカーで初優勝をし世界をアッといわせたのだった。
 彼らは4年後のアムステルダム五輪にもニ連勝する。モンテビデオのセンテナリオ・スタジアムの、バックスタンドをオリンピカ(TRIBUNA OLYMPICA)北スタンドをコロンベス(TRIBUNA KOLOMBES)南スタンドをアムステルダム(TRIBUNA AMSTERDAM)と呼ぶのはその記念である(ついでながら記者席や本部席のあるメインスタンドはアメリカ=TRIBUNA AMERICA)。世界はサッカーという糸で、たいていどこかでつながっている。


ブエノスアイレスでの“オーパ”

「きょうは南コースのようだネ」
 1981年1月14日、ニューヨークのケネディ空港を定刻より遅れて14時55分に離陸したJAL 005便は冬のカナダ平原の上空を飛んでいた。出発後しばらく雲が多かったが三時間ほどして巨大な氷結した湖上を横切るときに、ウィニペグ湖と聞き、この日のアンカレッジまでの飛行は、3本あるコースのうち一番南のコースを知った。

 1月10日、コパ・デ・オロの快勝でウルグアイがブラジルを破る“驚き(オーパ)”を見た。そして翌11日午後ブエノスアイレスへ飛び、2日のちニューヨーク経由で帰国の途上だった。
 2週間のウルグアイ滞在は、モンテビデオの市内が主で、それもバルケホテルとエスタディオ(スタジアム)とナシオナル・クラブのあたりをうろうろとしていただけだった。モンテビデオ東方145キロにある世界的なリゾート、プンタデレエステはぜひ行ってみなさいと、会う人ごとに勧められた。ナシオナルのマネージャーも、まずモンテビデオの海岸の素晴らしさを語り、そのあと、プンタデレステの岸が、もっとも魅力的だと説いてくれた。せめて日帰りでも出来ないかとプランを練ったがダメだった。
 西方の国境を画すウルグアイ河に近いパイサンドゥや北東のブラジルとの境界にあるアルティガスにも心ひかれた。前者はナシオナルのムヒカ監督の出身地、後者からはウルグアイ代表のHBルベン・パスが生まれている。アルゼンチンに比べて、プレーそのものが“骨太(ホネぶと)”の感じのあるウルグアイ・サッカーの“サムシング”が、こうした田舎を見ること、そこの子どもたちの遊びを眺めることで、多少分かるかも知れないと考えたのだが……。

 ブエノスアイレスのプラサホテルは部屋の設備がすっかり改良されていた。78年ワールドカップのときは、大会中に工事を続けていたほどで、テレビは映らず、電話はほとんど通じなかった。
 2年半後のいまは便利さは日本並になった。部屋は広く、建物は格があるのだが、1泊の料金は、24万3,000ペソで、120米ドル(2万5,000円)。ワールドカップのときは大会期間中の特別料金としてホテル組合が平常の2倍にして(ここは90ドル)非難を浴びたが、今度はそのときの平常値段の3倍近くに上がったわけだ。

 78年に買い損ねた品物のショッピングもブエノス滞在の楽しみだったのだが、フロリダ通りのウィンドウを覗いて、あまりの物価高に意欲を失ってしまった。
 ブエノスで長く貿易をやり,サッカーにも詳しいK氏の話では、半年で100パーセントくらい物価があがるほどで、みんな困っているハズだが、それでも休日にはゾロゾロとフロリダ通りへでてきてウィンドウショッピングを楽しむ余裕があるらしい。正月休みにはエセイサ空港を出た(つまり外国へいった)人は100万人もいたとか、もちろんサッカーへの市民の関心は高く、コパ・デ・オロでは連日、テレビの前が大変だったらしい。
 とくに1月7日の西ドイツ対ブラジルは、1勝1分けのアルゼンチンにとって決勝進出を示す重大なポイントだった。そして後半の9分、西ドイツが1点を奪うと、家々から拍手がわきおこり、4分後にブラジルの同点ゴールが決まると町中は静まりかえった。試合終了後は誰もサッカーを語らず、次の日の朝、商売の話でくるポルテーニョたちもコパ・デ・オロに触れられたくない様子だったという。


そしてスペインを想う

 冬から夏への往路と違い、夏から冬への復路は、あっさりカゼをひいてしまった。アンカレッジに近づく機の中でクスリを飲み、メモを整理しながら考える。
 今度の旅ではデアパル監督の悠容たる敗戦の弁を聞いた。テレ・サンターナが記者会見で丁寧にサービスに務めるのを見た。彼は英語圏の記者がほとんど退席したあとでも、ただ一人ポルトガル語の分からない私のために通訳に翻訳させ、その間、ブラジルやウルグアイの記者を待たせてくれた。メノッティのカリスマ的なのとはまた違った2人の魅力でもあった。

 多くの見聞での最大の収穫は、アルゼンチン・西ドイツ・ブラジルなどの試合が現代の最高、最大のエンターテイメントであるのを確認したことだ。
 それらの90分がいかに短く、一つひとつの局面の、いかにすばらしく、楽しかったことか。
 欧州選手権で爛熟の西欧サッカーに失望したけれど、ここでは喜びと興奮があった。大戦のさなかに敵味方から愛されたサッカーが、82年はスペインでワールドカップを開く。その参加24ヶ国の先頭に立つのが、この3国だろう。大会まで半年ちょっと…荒涼たるアラスカの風景の中で、私は6月のスペインを想うのだった。

↑ このページの先頭に戻る