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ラプラタに憶う

 ラプラタに憶う

 スタジアムを揺るがす大歓声と紙吹雪、そしてテレビ・アナウンサーの「ゴール、ゴール、ゴールー!」の絶叫の中で暮らした一カ月。W・ハドソンの“はるかな国 とおい昔”以来、アルゼンチンは少年時代の私の夢をかきたてる土地でした。その国で、しかもサッカーのワールドカップの取材となれば、まさに、最良の日々だったといえます。そうした旅の日々を振り返り、よいプレーヤー、よいプレーをみなさんといっしょに楽しみたい――そんな連載を今回から始めさせてもらいます。

 これがラプラタ河か――対岸もさだかに見えない巨大な茶色の水面を窓外に見ながら、わたしは、何度も「ラプラタ」をつぶやいた。
 
 5月26日(金曜日)の昼前、この日の朝、サンパウロのピラコンポス空港を飛び立ったルフトハンザ508便は、いま左眼下にウルグアイのコロニアの町を見おろしながらラプラタ河の上へ出たところだった。
 
 向こう岸がブエノスアイレス。そして巨大な流れが大西洋に出てゆくあたり、つまり、わたしの座席のはるか左の方に、ウルグアイの首都モンテビデオがあるはずだった。

 そう、モンテビデオは1930年はじめてサッカーのワールドカップを開催したところだった。

 1924年のパリ・オリンピックで、南米のフットワークをみせて欧州勢を驚かせたウルグアイは、そのドリブル・タレントたちによって、つぎの1928年アムステルダム大会にも勝ってオリンピック2連覇。いちやく世界のサッカー界の“小さな強国”となった。そしてその勢いはFIFA(国際サッカー連盟)の第3代会長ジュール・リメ氏が提唱した第1回世界選手権大会、つまり、プロ、アマを問わぬ「真の世界一」を決める大会の舞台をつとめ、ワールドチャンピオンとなって輝くだのが、その7月30日の決勝の相手がアルゼンチン。ラプラタの南岸のサポーターたちは、前夜から汽船やボートでぞくぞくと北岸のモンテビデオへ渡ったのだった。

 いま、その悠揚たる流れの上を、西ドイツから多くの記者、テレビスタッフ、観光(応援)ツアーの人たちを乗せた飛行機が高度を少しずつ下げながら南進する。極東からやってきたサッカー好きは、ドイツ語のざわめきの中で、ひとり、はるかな国への道を反芻するのだった。


 マンハンッタン急行

 地球のまったく反対側にある日本とアルゼンチンは、まさしく、はるかな国だ。現在の発達したジェット旅客機でもざっと30時間はかかる。その長い、いろいろなルートのうち、わたしは、比較的、速くて楽だと思われる大阪―成田―ニューヨーク―ブエノスアイレスを選んだ。

 といってもニューヨーク―ブエノスは直行でなく、リオデジャネイロとサンパウロで各1泊をくみ、大会前の世界のサッカー王国ブラジルの「におい」をかいでおくことにした。

 5月23日(火)15時45分に大阪空港をたち、成田新空港へ。そこで、1時間半の待ち合わせののち、ボーイング747の機内へ。

 このマンハッタン・エキスプレスと呼ばれる東京―ニューヨーク直行便は東京から北東に針路をとって、スワード半島のつけ根からアラスカへはいり、フェアバンクスの北方で、南東に機首をふり、カナダ北部の荒涼たるツンドラ地帯を飛びこえて、一気に5大湖の東端オンタリオ湖をかすめてニューヨーク・ケネディ空港へはいる。

 ユーコン河からマッケンジー河の流域、つまりアラスカからカナダへはいってしばらくして、あらわれる巨大な氷結した湖面は金髪美人のスチュワーデスが、グレート・スレープ湖と教えてくれた。このPA800便の機内サービスは、夕食と朝食、そしてスナック(ジュースとケーキ)で、そして映画もあるが、わたしに一番うれしかったのはこの会社が出している機内備えつけのPR誌『クリッパー』の5月号。表紙にペレがサッカー・ボールを持った写真をのせ、なかにペレによる大会予想を5ページにわたって掲載していた。ワーナー・コングロマリットの、あるいはぺプシの大宣伝力によるものかもしれないが、ともかくアメリカの飛行機会社のPR誌がサッカーにこれほどのスペースをさくとは・・・・・・そして、それを東京―ニューヨーク空路の客席で読むことができるとは・・・・・・。ここにもサッカーがアメリカで“市民権”を得ている証拠がある。


 巨大なモニュメント マラカナン競技場

 ニューヨーク・ケネディ空港でリオへの乗りつぎの乗客の多くは、団体のブラジル日系市民だった。そういえば、6月18日、ワールドカップ2次リーグのあるときに、ブラジルでは日本人移民70周年記念祭が開催される。いま80万人の多数になった日系市民は、その勤勉さと真面目さで、ブラジル中で大きな信頼をかちえている。

 わたしの左隣、高知県出身で、いまサンパウロ近郊で雑貨商を営み、20年ぶりに里帰りしてきた中年紳士によると、ブラジルの大都市に野菜や果物を豊かに供給するのは、ほとんどが日系人の農園だという。

 リオデジャネイロ到着は5月24日午前10時。ここには、世界一大きな競技場、マラカナン・スタジアムがある。

 1950年、大戦がおさまってから、復活した第4回ワールドカップのためにつくったもので20万人収容。コパカバーナのホテルの前でタクシーの運転手氏に、マラカナン・スタジアムへゆきたいといえば心得て案内してくれる。受付で入場料を払い、エレベーターで6階まであがる。スタジアムの高さは32メートル。大きさのわりに、小さくまとまってみえるが、おそらくここへ人がつまったら、すごい感じになるだろう。最上段のテラスを一周しようとしたが、途中でやめた。1周が約1キロあるという。スタンドの傾斜がゆるく、ほんの一部の特別席を除くとイスがついていない。コンクリートの上へ座るのだという。ことしで建造後28年、もうすこしで30年を迎えるこの大スタジアムは、いささか古びてはきているが、ブラジル人にとってのモニュメントであるにちがいない。わたしたち以外にも、観光バスの一群のお客がはいって、ガイドの説明をきいていた。ガイドは1950年、あの悲しむべきウルグアイとの決勝を語るのだった。

 広大な国土に住み、スケールの大きい自然を相手にするブラジル人は、建造物もまた大きなものを好むのだろうか。リオの町の名物のひとつコルコバード岩峰(709メートル)に立つキリスト像にしても、高さ38メートル、1145トンもある。あのブラジリアという、まったく新しい首都を広野のなかに建設した巨大好みは、すでに10万以上のサッカー・スタジアムを11もつくってきた感覚と通じるものがあるのかもしれない。

 そう78年ワールドカップのブラジル代表が最後の仕上げとして親善試合をするのが、この国の南端に近いポルト・アレグレ市のペイラ・リオ・スタジアム。1971年に建設された11万収容の近代的競技場、それはSCインテルナシオナル、つまり1クラブ所有の大スタジアム。だいたい、この人口87万の町にはすでにオリンピコという7万人をも収容する大スタジアムがあったのに・・・・・・。

 リオの名勝、コパカバーナは長い砂浜と周囲の岩峰とが奇妙な調和をみせているが、サッカー好きには、砂浜に立ち並ぶゴールとその前で遊ぶハダシのフットボーラーがおもしろい。その砂浜を見下ろす高層のホテル・メデリンの朝食、ブラジル式の“バイキング風ブレクファスト”の豪華なこと。

 ハムやソーセージやチーズやパンの取りほうだいはともかく、メロン、パパイヤ、パイナップル、バナナ、あらゆる果物の放つ芳香、新しい国の豊かさの象徴といえた。


 サンパウロの少年たち

 25日にリオから飛んだサンパウロは、日本人の町でもある。同時にここはサンパウロ、コリンチャンズ、パルメイラス、サントス、ポルトゲーザなどの有名なクラブがあって、リオ(ポタフォーゴ、アメリカ、フラメンゴ、フルミネンセなどのクラブがある)と対抗するブラジル・サッカーのもうひとつの中心地。そのサンパウロ・クラブで、わが水島武蔵君(13)、岩崎真弥君(16)の2人がサッカーにはげんでいる。2人が世話になっている吉井修さん(74)宅へうかがうと、ちょうどキリスト教の休日のため練習がないとのことで、家で遊んでいた。プロをめざして集まってくるのだから、ジュニアも少年も、なかなか競争が激しいらしい。そこで元気でやっているのだから武蔵君も真弥君もなかなかのものだ。北海道出身で、南部忠平さん(ロサンゼルス五輪三段跳び優勝)と同級だったという吉井さんのサポートのおかげだろう。

 少年たちと再会を約して、25日夜はサンパウロのヒルトンに1泊。26日朝は9時にビラコンポス空港発のルフトハンザに乗るために、早起きをして、いったん市内のコンゴニアス空港へゆき、ここで荷物のチェックをしてバスで100キロ離れたビラコンポスへいった。朝食を6時にとったため、さすがに例の豪華バイキングの準備はできていなかったが、果物はメロンをほしいというと、1個の半分をスパッと切って持ってきた。100キロのバスのドライブも、なんと客は、わたし1人。

 そして乗りこんだLH(ルフトハンザ)機。74年大会ですっかりなじんだ紺の尾翼に黄色と紺のマークのついた機は、時間どおりのフライトで、いまラプラタ河にかかったのだった。

 どんなめぐりあわせか、戦中派がドイツ機に乗ってラプラタ河を眺めれば、あの大戦でモンテビデオとこの河に世界の耳目を集めたドイツ小型戦闘機“グラーフ・シュペー号”の自沈と、同艦と英国艦隊の交戦したラプラタ沖海戦が浮かんでくる。

 “海戦”という言葉は、若くして散った、わたしたちボール仲間への追憶となる。そして、生きて、はるばるとラプラタへ来て、ワールドカップを見ることができる幸せをあらためて思うことになる。

 「間もなくブエノスアイレス、エセイサ空港に着きます」と機内アナウンスは告げる。高度を下げた機の窓外には、もう水面はなく、牧場に牛の姿があった。

(サッカーマガジン 78年8月25日号)

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