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イタリア人の町、ボカ

 マルコ少年の旅

 「坊や、この道を真っすぐゆきなさい。どんどん歩いて、町角に書いてある通りの名前を読んでいけば、必ずお前がさがしている通りが見つかるだろう」――『クオレ・母をたずねて三千里』より。

 イタリアの作家エドモンド・アミチスが1887年に書いたクオレのなかの「アペニンからアンデスまで」は日本でもよく読まれる児童物語である。

 テレビでも2年ばかり前だったか、『母をたずねて三千里』という題のアニメで放送され、なかなか好評だった。ブエノスアイレス、ロサリオ、コルドバ、ツクマンと、11歳の少年は未知のアルゼンチンで長い旅をつづけるのだが大西洋の長い航海の末、ブエノスアイレスへ上陸して、知り合いのイタリア人の家をさがすときに、ある男の人が教えてくれるのがはじめの「町角に書いてある通りの名前・・・・・・」である。

 その言葉どおり、ブエノスアイレスの町は標識を見て歩けば、迷うことはない。碁盤の目のように、縦と横の道路が交差し、十字路から十字路までの1区画は約100メートル、区画ごとに番地が100番ずつ変わる。


 港町とカミニート

 少年マルコはブエノスアイレスでは、すでに転宅した母には会えないが、失望した彼を1人の紳士がはげましてくれる。
 「この手紙をボカへ持ってゆきなさい。ボカという町の半分はジェノア人だ。このあて名の人をたずね、そうすれば、彼が君をロサリオへ送ってくれるだろう。そこからまたコルドバへ送ってくれる人を見つけてくれるはずだ」――。

 市の東南にあるボカ地区は、イタリア人の町、タンゴの発祥地。港のすぐそばのカミニート街は、名曲『カミニート』(小道)からとった名。色とりどりのペンキを塗った独特のたたずまいである。

 そのすぐ近くに有名なレストラン「ペスカディート」がある。ペスカードスが魚で、イートとなれば小さいものをあらわすから、ペスカディートは小魚ということになるのか。その店内の壁にタンゴの名歌手たちの写真などと並んで「ボカ・ジュニアーズ」の新旧のスタジアムの油絵、そしてCABJ(クラブ・アトレチコ・ボカ・ジュニアーズ)のマークがかかっている。

 ボカ・ジュニアーズ――ここの発音では“ボカ・フニオールス”だが――はブエノスアイレスでリバープレート(これも“リーベルプラーテ”とまったくスペイン語ふうに読む市民も多い)とともにサッカーファンを二分する人気のあるクラブだ。


 ボカ・ジュニアーズ

 アルゼンチンのサッカーは、ほかの国々と同じように英国人によって導入される。そして1885年もっとも古いブエノスアイレスFCが設立される。リバープレート(1901年)、インデペンディエンテ(1905年)、ラシン(1905年)などについでボカ・ジュニアーズも1908年につくられた。

 現在のスタジアムは四角い箱型で“ボンボネーラ(チョコレート箱)”と呼ばれている。ここの最近の選手では62年、66年のW杯で活躍したアントニオ・ラチンがわたしたちの記憶に残る。66年は彼の退場が欧州・南米の対立激化のもとともなったのだが・・・・・・。

 このボカ・ジュニアーズ・スタジアムの古びた油絵を眺めながら、コルナリート(白魚のような小魚)のフリト(フライ)や、カラマレッテ・フリト(小さいイカのフライ)に塩をかけて食べ、ペルミチェルス(スパゲティ)を食べればまずイタリア気分。もちろんワイン(ピノ)は酒好きであろうと、なかろうと欠かせぬものとなる。

 “ボンボネーラ”つまりボカ・ジュニアーズのホームを訪れたのは5月27日だった。地元の2部チーム、スポルティボ・イタリアーノ・クラブとイタリア代表チームの親善試合を見るためだった。

 この日の催しは、いわばイタリア系市民大会。それぞれ伝統の服装の人たちでグラウンドは華やかな色彩にあふれていた。

 あの苦難の旅をつづけたマルコと同じ年ごろの少年たちが、嬉々としてハーフタイムに試合をし、父祖の国のスターと並んでカメラにおさまる。子供たちにとっては生涯、忘れることのできない日となったろう。
 ただし、試合のほうは、調整ゲームとあってイタリア代表のイレブンが徹底して手を抜くものだから、たまりかねたお客のほうからブーイングも起こったりした。その、彼らの手抜きプレー(手を抜けば彼らといえども、小さな凹凸の多いグラウンドでボールをはずませボールを止めそこなうこともあるのが、余計に面白かった)の中でイタリア選手の、やわらかいボールタッチと身のこなしに目を見張った。

 あのファケッティやリーバに代表される、駿足、長身だがイカリ肩のいささか硬い感じのあった74年のイタリアは、若返るとともにまったく変ぼうした。はじめて生で見るペテガもロッシも、そしてシレアも、ジェンチーレも、わたしには78年の新しい興味の1つとなった。

(サッカーマガジン 78年9月10日号)

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