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左利き2人の芸術家

 「ホロコースト」のラストシーン

 ナチのユダヤ人迫害を描いたテレビ映画の大作「ホロコースト」は(全部を通して見たわけではないが)胸の痛む場面の連続だったが、その暗く沈んでしまう気分を救ってくれたのが、ラストシーンの孤児と主人公のサッカーだった。

 ようやく苦難と戦火から解放されたルディはギリシャ系ユダヤ人の孤児たちをパレスチナへ送り届ける役目を頼まれる。その子供たちは、彼の目の前で無心にサッカーをしている。「ボクはギリシャ語もヘブライ語もできない」つまり、子供たちと共通の言葉を持たないから・・・・・・とはじめ二の足をふんだルディが、やがて、大切なのは言葉でなくて、愛だと気づいて決心する。そして、子供たちの中へ走りこんで、いっしょにサッカーをする。ボールを奪い合うルディと子供たちのアップで長い映画が終結する。


ワイン博物館で利き酒

 さてこちらはワールドカップ。サッカーという世界共通の言葉を通し、世界中の人々が見つめた「平和な戦争」を追うわたしの旅の連載も7回目となる。

 6月11日、デニス・ローと私たちの飛行機が到着した朝のメンドーサ空港はひっそりと静まりかえっていた。「スコットランドの勝利を祈ります」「ありがとう、今日の試合を楽しんでください」――彼ら一行と別れて、“白タク”で市内のスセックス・ホテルへ。

 ブエノスアイレスのプラサ・ホテルやマルデルプラタのグラン・プロビンシャルよりはちょっと格落ちだが、なにより静かだ。

 メンドーサは人口50万、アンデス山麓の高原都市。「太陽とワインの町」というのがキャッチフレーズだ。標高756メートル。日本でいえば、さしずめ信州の松本というところか。ただし近くに油田もある。プレスセンターにあてられた市の文化センターのすぐそばにワイン博物館があって、中ではワインづくりの手順をミニチュアでみせてくれ、美人のガイドが説明し、1杯味見をさせてくれる。


ロブ・レンセンブリンク

 午後4時45分からの第4組スコットランド対オランダは、冬の夕方とは思えぬ明るい日ざしのなかだった。新設のスタジアムは、市の中心部より、さらに高台にあるスポーツセンターの一角。これもまたモダンなデザイン。試合はスコットランドが、せめて1勝をと激しく攻め、オランダは敗れても2点差なら2次リーグ進出可能という好条件を背に、ややのんびりムード。それでも四年ぶりにナマで見る両チーム、そして1人ひとりのプレーは、やはり来てよかったと思わせる。

 そのなかで、とくに注目はレンセンブリンク。クライフに似た、やさしい顔、スリムなからだつき。
クライフより、もう少し柔らかいボールの持ち方。4年前に見たときは、まずテレビでの対ウルグアイ戦で「間」のとり方のうまさに驚いたものだ。こんどの大会前にクライフの不参加が問題になったときに、「わたしがいなくても、レンセンブリンクはりっぱにチームを引っぱってゆく選手だ」というクライフの談話があったから、余計に気になっていた。

 スコットランド戦では、例の左足シュートで決めて大会の1000ゴールのスコアラーとなった。正確なシュート、上手なドリブル、そしていったん消えておいて、突然、ゴール前へ出てくるところは、あいかわらずだが、クライフの代わりをするのは難しいように見えた。それはひとつには気性の問題があるのだろうが、もうひとつはボールの持ち方。左足の内側、あるいはインフロントのあたりで持つのが彼の専売だが、ときにはもう少し、左足の外側、あるいは前方へボールをおけないと、攻撃展開の幅が狭くなってしまう。そのため、クライフのように、“ああ、あのテがあったのか”とこちらがあとでヒザをたたくほどの意外性に乏しい。

 それにしても、大会1000点目のPKの落ちついて、正確なこと。第1戦の対イングランドの2つのPKは、1本は左上すみ、1本は右下と左足でちゃんとけり分けておいて、この日は(やはり左で)左下すみへきちっとはいった。クライフではないがやはり1級の職人芸にはちがいない。


スコットランドに変化のきざし

 この日のスコットランドは、前2試合をテレビでちらりと見た印象とはまったく違っていた。正確につなぎ、ジョーダンへのロビングだけでなく、あるいは小さく鋭く切り込み、あるいは深い位置からのセンタリングをねらった。レンセンブリンクとは左利きという点では同じだが、からだつきのまったく違う小柄な31歳のアーチー・ゲミルは、PKではゴール右下すみへきっちり決め、そのあと3人をぬいてシュートしときは、右下へヤマをかけたGKの逆をついて左すみへ決めた。

 不本意な成績でアルゼンチンを去らねばならぬスコットランドだが、彼らの大会での最高の試合を見たのは、わたしのメンドーサの大きな収穫だった。

(サッカーマガジン 78年11月25日号)

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