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メンドーサ人の好意でアンデス山中へ

神戸とブエノスアイレス

 10月下旬にわたしの中学校の同窓会が催され、久しぶりに神戸1中43回つまり昭和12年(ベルリン五輪の翌年)に入学し昭和17年(太平洋戦争開戦の翌年)に卒業した仲間が集まった。

 中学生の時にはサッカー部員でなく高等学校へ進んでからサッカー部に入り、旧制のインターハイに出場した連中も多くて、サッカーの話題はにぎやかだった。中に雲中小学校以来の仲間である矢島哲男君の顔もみえた。

 彼の父君は戦前の大阪商船・南米航路の船長で、長いキャリアを持ち、ことに昭和14年に就航した当時の最新鋭貨客船「あるぜんちな丸」13,000トンのキャプテンであり、港町・神戸でも、ブエノスアイレスでも有名人だった。哲男君の弟・輝男君がいまマルデルプラタ港を基地に船乗りになっているのも、大戦中に輸送船・鴨緑丸(ルソン沖で沈む)と運命をともにされた父君を偲んでのことだろう。

 その「あるぜんちな丸」を設計した和辻春樹氏の子息・春夫氏は、わたしより5年上の神戸1中。本誌誌上でも読者おなじみの大谷四郎氏が主将をやっていて全国中学大会に優勝したときの4年生。ドリブルの上手な選手だった。

 和辻春夫氏はのちに六高(岡山)へ進み、やはりこれも六高サッカー部の矢島幹男氏(哲男君の長兄)とともにインターハイで大活躍した。

 同じ港町、それもサッカーが早くから盛んだった神戸とブエノスアイレスとの縁はまことに深い。そういう縁をつくってきた先輩のおかげでアルゼンチンでの日本人の評判ととてもよい。

 さて、きょうの78年ワールドカップの旅、港町ブエノスアイレスではなく前回につづいて高原都市メンドーサの楽しみ・・・・・・。 


シモノビッチ館長

 6月12日の朝、メンドーサのスセックス・ホテルの1階の食堂でコーヒーとパンの朝食をとりながら、わたしは軽い興奮を抑えることができなかった。
「とうとうアンデスの山中へいけるぞ。こんどの旅行では、プランに組み入れてなかったが、思いがけないここの人たちの好意で、ひそかな願いが果たせそうだ。ツイているぞ・・・・・・」

 前日、スコットランド対オランダの試合のあと、プレスセンターにもどって原稿を書いていると、同センターの係が来て、インタビューをしたい、初めてメンドーサへきた日本人記者として感想を聞かせてほしい、という。簡単にすむ、いつものヤツだな、と応じたら、これがまた丹念な質問。もちろん英語の通訳を中にいれての話だから、ずいぶん時間を食う。プレスセンターの広報係が地元の新聞に各国記者のメンドーサについての印象記をサービスで流すのだという。

 こちらもプレスセンター横のワイン博物館で、飲ませてくれた(といってもボクは下戸だからグラスの半分がいいところ)口あたりのよい白ワインの勢いも手つだって、日本の新聞の現況から、今度のワールドカップはNHKが放映し、何百万人が注目するなどと、口かずも多くなっていた。

 インタビューのあとで、同センターのシモノビッチ館長室で雑談しているときに、ふと
「アンデスの最高峰アコンカグアの南壁の見えるところへいってみたいと思ってバスセンターで調べてみたら、便はあるにはあるが、帰りの時間がよくわからなかった。乗用車をチャーターできるだろうか」ときいてみた。

 館長はすぐに、さきほど通訳をしてくれたロベルト・ガルシア・イグレシアス氏ともう1人の新聞係氏に「自動車会社に手配しなさい。明日のアンデス行きは、言葉が通じないとお困りだろうから、君がついてゆきなさい」とまでいってくれた。

 すでに夜10時をまわっていたが、イグレシアス氏の努力で、12日朝から12時間、車をチャーターし、往復400キロのドライブに出かけるお膳立てができたのだった。


片道200キロ 雪は少ない
 
 そして当日、午前8時、まずチャーター車と運転手氏があらわれ、ついでイグレシアス氏がやってきた。こちらは読売新聞の足立諄記者と2人。出発前に簡単な朝食をとる。昼の弁当やテルモス(魔法ビン)はいらないのか、と聞くと、イグレシアスは律儀に、いちいちドライバーに問いただして答えてくれる。
 「わたしたちは、国道7号線を100キロばかり走って、まずウスパヤタへゆきます。ウスパヤタは景色のよいビッグ・バレーです。そこにはホテルもレストランもあります。そこから最終地点のラスクエバスまで100キロ足らず、そこがチリとの国境です。例年ならラスクエバスは20センチくらい雪がつもっているころですが、現地の郵便局へ問い合わせたら、雪はなく、車の通行には支障なしとのことです。ラスクエバスの手前に“インカの橋”と呼ぶ名勝があり、そのまた手前には、しゃれたレストランもあります。だから弁当も飲み物も、もっていかなくてもいいでしょう」

    *   *

 こんどの大会でわたしはラテンのサッカーの楽しさを味わった。と同時に、アルゼンチンの人たちの親切さに頭の下がる思いがした。この日のアンデスドライブも、彼らの心のこもった“もてなし”といえる。

 午前8時30分、ホテル前をスタートした車は一路ウスパヤタに向かった。

(サッカーマガジン 78年12月10日号)

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