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コンフィテリアで

 サンパウロ選抜と佐々木

 12月17日、ブラジルのサンパウロ州選抜ユース−日本ユース候補の最終戦は、テレビ観戦ながら見ごたえがあった。ことに後半しばらくして佐々木博和(枚方FC)が、サンパウロ・シリーズで初めて登場したのが面白かった。16歳と10ヶ月、両軍を通じて一番若く小さな彼は、登場して最初のボールタッチで相手を小さく左へかわして見せた。ブラジルの若者たちはおそらく「オヤッ」と思ったにちがいない。彼らの持つ感覚で、佐々木が自分たちと同質のボール扱いをすることを知ったのだろう。次から3回、佐々木がボールをさわると、その都度、遠慮のないトリッピングとプッシングで妨害した。後方からのボールを自陣30ヤードで取りに戻りながら、ちょっとけん制しておいて一気に反転してもって出たときのことである。完全においてきぼりのブラジル側がトリッピングで倒したのに対し、佐々木は起き上がるなり相手に詰め寄り、怒りをぶちまけていた。

 結局、この日の試合で彼は、(相手のファウルのために)味方のシュートへ直接に結びつける有効なキープはできなかった。しかし、佐々木がボールをもって相手に“勝つ”ことで、フィールドもスタンドも気分が盛り上がった。彼が投入されてから日本ユースの1人ひとりのボールをもってからのプレーが積極的になった。尾崎の縦へのドリブル、柱谷の粘っこい競り合い・・・・・・そうした高揚のあらわれ、そして決定的な2つのチャンス(得点にはならなかったが)の遠因となったと思う。

 ワールドユースという、いささか今のレベルには高すぎる目標に挑戦し、懸命の努力を続けている若い指導層に敬意を表したいが、その困難さゆえに、スタート時に掲げたユース育成の基本的な考え方から、無理な促成栽培に変わらないことを祈りたい。


 お祭りのコリエンテス

 ユースの話になると、どうも力がはいって話が長くなりそうなのが悪いクセだ。サッカーという世界の若者を見るのが楽しみ・・・・・・。そのなかから生まれてくるタレントによって、世界中が心をひとつにして楽しむのがワールドカップ。その78年大会の2次リーグ第1戦を終わったのがこの連載の前回だった。

 6月14日のB組のアルゼンチン(対ポーランド)、ブラジル(対ペルー)の勝利と、A組のオランダの大勝(対オーストリア)、イタリアの引き分け(西ドイツ)で焦点は絞られはじめた。同時に市民の大会への傾斜は、いよいよ強まる。試合の夜のお祭り騒ぎはいっそう輪を広げ、時間が長くなる。

 プレスセンターのあるサルミエント通りと並行しているコリエンテスの大通りは、お祭り騒ぎの中心となって、タクシーはストップ、そのため、ホテルへ帰るのにカメラやノートのはいった重いバッグをかついで歩くハメになる。人ごみをかきわけて、フロリダ街1005のプラサホテルに帰り着くと午前2時。霧のための飛行中止(前回記述)という早朝からのゴタゴタが響いて、いささかぐったりとなったらしい。今、その日の日誌を見ると、ただ1行「ロサリオへ行けなかった。」とある。


 英語、フランス語、イタリア語・・・・・・

 翌6月15日、ロサリオを昼に発って、ブエノスアイレスへ帰ってくる予定だったが、ブエノスに居すわっているために完全休養。ゆっくり起きて、フロリダ街の新聞の立ち売りで雑誌や新聞を買い、角のコンフィテリア(喫茶店)で朝食をとる。ブエノスアイレスでのわたしの朝食は、はじめの内はこのコンフィテリア。ホテルよりはだいぶ安く、ミルクコーヒー(カフェ・コン・レチェ)とハムサンドで1200ペソ(ホテルは3000ペソ)。カップになみなみとつがれたカフェ・コン・レチェを飲みながら、ブエノスアイレス・ヘラルド紙(英字紙)を読むのがふつうだった。この新聞には、『サッカー・マガジン』でおなじみのエリック・ウェイル氏のワールドカップの記事が載っている。

 アルゼンチンは早くから新聞が発行されていて、日刊紙が453紙、ほかに教養的な週刊誌が960、さらに1765の定期刊行物のある出版物の国だ。ついでながらスポーツ週刊誌は2誌『ゴーレス』と『エル・グラフィコ』。そしてこうした刊行物のなかで、外国語(つまりスペイン語以外の言葉)の出版物が250以上。英語、フランス語、ドイツ語、イタリア語、ポルトガル語、ギリシャ語、レバノン、ハンガリー、ロシア、日本・・・・・・。なにしろ世界各地からの移住者が造った国だから、それぞれの系統の社会があり、その人たちのための新聞もある(確か邦字紙も2紙だったか)。したがって、スペイン語圏からの移住者以外は、たいてい国語(スペイン語)のほかに父祖の言葉をしゃべる。

 プレスセンターで私たち記者連中を助けてくれる通訳嬢たちも、ほとんど、こういうキャリアだから、彼女たちのしゃべる英語やドイツ語は習っただけでなく、家庭での日常であることが多く、とても流暢だ。

 コンフィテリアの窓際に座って、しばらくぼんやりと外を眺めていると、美人の警官が見えた。胸にトリコロール(3色旗)をつけたのとユニオンジャックをつけた2人連れだ。外国人客のために、彼女たちのしゃべる言葉を国籍であらわしているのだった。

 サッカー選手の層の厚いのと同様に、通訳の層もまた厚い――わたしは、ふと、1年後の79年ワールドユースで勝つことの困難さとともに、通訳確保の難しい日本を思った。

 子供のときにボールになじむことからスタートするこの国では、外国語もまた、なじむことを積み重ねてゆく。子供のときにサッカーを習うことから始まる国は、また外国語も習うことから始まる。2次リーグの1勝で晴れやかな周囲の客とは別に、1年後を想定して、わたしの心は、必ずしもはずむわけではなかった。

(サッカーマガジン 79年2月10、25日合併号)

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