賀川サッカーライブラリー Home > Stories > >ルーハン大聖堂とブラジル戦前夜

ルーハン大聖堂とブラジル戦前夜

 元旦の決勝点

天皇杯の元旦決勝では、唯一の得点の生まれた攻めの、もうひとつ前の三菱の攻め、藤口が左後方からペナルティーエリアの中へ、2人抜いてシュートしたのが印象に残った。強引に突破してシュートした際にはバランスを崩したので、球はゴールを大きく外れたが、この突破は東洋の守備陣を「イヤな気分」にさせたと思う。次の攻撃で、藤口がちょっとドリブルして高原へスルーパスを出した際の東洋の小滝強のポジションと、ボールへ寄る判断の誤りが出たのは、実は、その前の藤口の突破による“後遺症”だろうとわたしは思っている。

この高原のシュートの際のもうひとつの問題は、東洋GK安藤の飛び出しだ。近ごろは、角度を狭くするためと称して、GKかゴールラインより相当前方へ飛び出してゆくのを無条件に奨励しているふしがあるが、はたして有効かどうか考えたい。これについてはまたの機会にお話するが、ここではワールドカップでも、飛び出さなければむしろ防げたのではないかと思う場面も、ちょいちょいあったと付記しておこう。


 幻のモンテビデオ

ワールドカップの2次リーグ第1戦(6月14日)と第2戦(6月18日)の空白を利用し、私は6月16日にモンテビデオへ飛び、1930年の第1回ワールドカップの“古戦場”エスタディオ・センテナリオを訪れることにしていた。日立の高橋英辰氏を誘って、朝7時45分アエロパルケ発のAR便の切符も買っておいたところが、14日と同じように、濃霧のために飛行機の出発はベタ遅れ。アエロパルケが晴れはじめたと思うと、モンテビデオ空港の方がダメだといった調子で、結局、この日、ラプラタ河をひと飛びする日帰り旅行は中止するハメになった。モンテビデオには、神戸一中で私より、2年後輩の山田重志氏がいて、スーパーマーケットを経営している。「息子が空港まで迎えに行ったのですが、霧がひどいと連絡してきました。実はスタジアム内のサッカー博物館のほうも手配して、特に見学できるようにしたのですが・・・」電話の向こう側で山田氏はいかにも残念そうだった。

 重志氏の兄弟はブエノスアイレスに住み、父君の代から日系人の成功者として有名。長兄のホルへ山田氏はボタン工場の経営者だ。

 翌6月17日は、そのホルヘ山田氏が車でプラサホテルへ迎えに来てくれた。アンデスも大西洋も見たから、アルゼンチンの大平原を車で走ってほしいという私の希望を満たすために、ルーハン大聖堂までドライブに行こうという。


 ホルヘ山田氏とドライブ

 ルーハン(Lujan)はブエノスアイレス西方70キロ、1630年に造られた古い町で、ここはネオ・ゴシック建築の協会で有名。なんでもマリア様の像を馬車に積んで運んでいるとき、突如、馬が動かぬようになったので、これこそ神のお告げと、その地に教会を建てたのが今の大聖堂。アルゼンチンのカソリック信者の中心地である。

 大聖堂の前の広場は、ローソクや絵葉書を売る屋台が並んで、ちょっとした縁日の気分。大聖堂のすぐ前に、歴史博物館があって、植民地時代の馬車や郵便飛行時代の水上飛行機、そして原住民であった平地インディオに関する展示がいっぱい。1日いても飽きない珍品が並んでいる。残念だったのは、入り口でカメラを預けなければならなかったこと。撮影禁止というのにパンフレットも売っていなかった。

 ルーハン一帯は、まったくの平坦地。ときおり、車窓から大牧場が見え、気の遠くなるような広さのなかで、牛が草をはんでいた。

 往復150キロのドライブののち、夜は山田さんとその親類の今村さん兄弟達が集まって、ちょっとした兵庫県人会となった。私と同じ神戸の雲中小学校出身者もいて話ははずんだが、結局はサッカーに落ち着いてゆく。戦前からこの地で手広くビジネスをしている山田、今村両家の2度の大戦中から戦後にかけての激動は、ひとつのストーリーになるほどで、詳しく聞きたいのだが、サッカーの見通しやルールについて質問されるものだから、いい気でしゃべっている間に時間が過ぎてしまった。

 皆の関心はやはり、アルゼンチンが優勝できるかどうか、特に次の6月18日の対ブラジル戦に勝てるかどうか――にあった。

 私はこう答えた。今度のブラジルの選手は守りのセンスがすばらしいこと。だから非常に点の取りにくい相手であること。その代わりブラジルの攻めもリベリーノがいないだけに展開の妙に乏しく、もっぱら個々のキープとシュート力による。彼らのキープは、私やヨーロッパ勢には意表をつくように見えても、同質のアルゼンチン選手にはそれほど防ぎにくくはないだろう。したがって、1点が勝負になる。こういう場合には、やはり、ホームチームが有利だ――と。

 帰途、プレスセンターのスナックへ寄ってルーハンのお土産で買ったマリア像のブローチを通訳嬢たちにプレゼントした。そのときにふと気がついて、彼女たちの宗教を尋ねた、「私はユダヤ教」
「私はプロテスタント」。

 この国の90%がカソリック教徒だから、彼女たちもそうだと決めこんだカソリック大本山のお土産品を持って、一瞬たじろいだが、彼女たちは「せっかくだから喜んでいただくわ」と受け取ってくれた。その彼女たちもまた、あすの試合の見通しを心配していた。この日のわたしの日記にはこうある。
「強敵ブラジルを前に、日系もユダヤ系も英国系も、すべてのアルゼンチン人は、ただひたすら彼らのセレステ(空色ユニホーム)の勝利を願っていた」と。

(サッカーマガジン 79年3月10日号)

↑ このページの先頭に戻る