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ベルリンとブエノスアイレス

 メノッティに思う

 本誌に連載中の『メノッティ、1353日の闘い』は大会の各ゲームにはいって一段と面白くなってきた。メノッティ監督については、彼の選手に対する指導力と、アルゼンチン協会のバックアップを取りつけたうまさと努力を買う人が多かった。

 ことしのワールドユース南米予選でも、彼の率いるアルゼンチン・ユースは勝ち残って日本へやってくる。一方、大国ブラジルは「いい選手を持っているクラブが選手の提供に協力的でなかった」(セルジオ越後氏)ために、結局予選で落ちてしまったという。若いタレントの豊庫であるブラジルでも、代表チームは協会あげて、クラブあげての協力がなければ好成績を納められない。

 新しく日本代表チームの監督、コーチに就任した下村幸男、渡辺正、両氏の努力と、選んだ協会のバックアップを期待したい。

 さて、その『メノッティの闘い』は今号も1次リーグの続きだろう。私の『ワールドカップの旅』は2次リーグ第2戦にはいってゆく。


 父の日のプレゼント

 6月18日はブエノスアイレスへやってきてから4回目の日曜日。そして2次リーグにはいったワールドカップは、
〔A組〕オーストリア対イタリア(ブエノスアイレス) 西ドイツ対オランダ(コルドバ)
〔B組〕ペルー対ポーランド(メンドーサ) アルゼンチン対ブラジル(ロサリオ)
の4試合が組まれていた。

 プレスセンターのスナックを出るときに、金髪美人の通訳が、チョコレートをどうぞという。「きょうは、父の日で、ポニフィーデというチョコレート会社からプレスの皆さんへのサービスなんです」と。

 16時45分キックオフのリバープレートでも試合前に、少年、少女が両チームの選手に花を贈った。これも、子供から父親への感謝という意味らしかった。その花を手にしたイタリア・チームが、スタンドへ走り寄って花を投げ込む。ワーッと喜ぶ観衆。いつもながら、ファンへのサービスを忘れない彼らのプロの意識と、それが自然に外へ出てくるヨーロッパ人のゼスチャーには感心させられる。


 ロッシとサラ

 白いユニホーム、黒パンツのオーストリアは、ボールを受けるときに相手が近くにいれば、強いて前へ踏み出さずに、小さなステップをつま先で踏む選手が多く、それがひとつのリズムになっているのが面白かった。イタリアはロッシがカウジオとのリターンパスで突進し、相手FBのシュトラッサーの処理が一瞬遅れたときに、右足でボールをけって得点した。オーストリアのストライカー、クランクルが持って出たボールを奪ってからの逆襲で、中盤で間をあけて、25ヤードあたりからじわりと締めつけてゆく厚い守りと、相手ボールを奪ってから、これはゆけるとみたときのカウンターの早さは、この試合でも楽しい見ものだった。

 オーストリアは右FBのサラ主将のウイングような攻め上がりと、彼の角度の深い右足キックによる、センタリングやクロスパスでイタリアを脅かした。一度はサラがゴール正面まで攻め込んだが、肝心のシュートのとき中へはいりすぎて、左ポストの外へはずしてしまった。シュートの位置がもう少し右寄りだったら、彼の右足の得意の角度からみてゾフもやられていたかもしれない。


 “民族の祭典”と“美の祭典”

 オーストリアのサッカー、といえば、私が初めてサッカーの「本物の国際試合」を映画で見たのが、オーストリア対イタリア戦だった。1936年、ベルリン・オリンピックの際に、陸上、水泳を主とした「民族の祭典」、球技などを主とした「美の祭典」の2部作の記録映画が作られたが、その第2部、美の祭典のサッカー競技、決勝を息をつめて見たものだ。当時のイタリアは、34年、38年のワールドカップ連続優勝の間で、全体にレベルが高く、ベルリンのこのチームのFBは、そのまま38年ワールドカップにも出場しているが、そんな名手の中で、今でいうマシューズ型フェイント、つまり右足でボールを左へまたいで、ついで右へ相手をはずす(釜本もやっている)抜き方で、オーストリアのCHバルミュラーを抜いて出たCFベルトーニや、右ウイングの名ドリブラー、フロッシなどをこの映画は見事に捕らえ、そして得点の際のベルリン・スタジアムの興奮を生々しく伝えた。

 フロッシのうまさについては、後に大会に出場した日本代表(3−2スウェーデン、0−8イタリア)の川本(泰三)さんや右近(徳太郎・故人)さんからも聞かされたが、タッチライン上のボールを突いて相手をはずし、そしてまっすぐライン上をころがして(おそらくボールの外側を突いたのだろう)走ったシーンは、いまも頭に焼きついている。外国のプレーに接するチャンスのなかった当時、「美の祭典」の5分間のサッカーシーンのために映画館へ足を運んだのは4度だったか。40年前、私がまだ中学生(旧制)のころだった。

 リードを守ろうと、守備偏重になったイタリアに、口笛のブーイングがやかましくなったリバープレートで、眼前のゲームと40年前の美の祭典をダブらせていた私は、後ろの席の大声に驚かされた。モニターテレビによると、コルドバでリードされていたオランダが2−2の同点にしたという。こちらの時計は82分を指していた。

 さあ、午後の部はこれで終わりだろう。2次リーグA組は、オランダが1勝1分け、得点が多いので、もっとも有利になった。さあB組。プレスセンターへ帰って、ロサリオのテレビを見よう。早く帰ってテレビの前のいい場所を取るために、一番のバスに乗ろうと、私は立ち上がって出口へ向かった。大時計は、試合時間の86分を指していた。

(サッカーマガジン 79年3月25日号)

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