賀川サッカーライブラリー Home > Stories > >ブラジル勢を困惑させた小さなアルディレス

ブラジル勢を困惑させた小さなアルディレス

 20年前のユース

 ワールドユースの組み合わせが決まって、大会まであと半年の実感が強まってきた。大会の運営に直接タッチする人たち、選手を指導する監督、コーチたちは、まことにご苦労なことだが、おかげでわたしたちは居ながらにして、世界各地域の素材をみることができる。

 1959年に高橋英辰さんや西本修吉さん(慶大OB)たちといっしょに、クアラルンプールへ高校選抜チームを連れて行ったのが第1回のアジア・ユース大会。当時は18歳未満の高校選抜チームが海外の公式競技に出かけることが、そもそも日本スポーツ史上初の“大事件”だったことを考えると、20年後のこんどのワールドユース開催の規模は夢のようでもある。

 20年前のクアラルンプールで、宮本輝紀や杉山隆一ら、のちの東京、メキシコ五輪の軸となるプレーヤーが、芽を表わしていた。こんどの日本ワールドユースで、いい芽が伸びることを期待したい。


 サンマルチン文化センター

 さて、表題のワールドカップの旅。おとなの世界一を決める大会は、いよいよ6月18日、2次リーグ第2日にはいっている。この日の午後、リバープレートでのイタリア対オーストリアを観戦したあと、記者たちはあたふたとプレスバスに乗り込んで、ブエノスアイレス市内のプレスセンターに戻る。競技場を一番に発車したバスの中にはロクさん(高橋英辰さん=大会中、雑誌の仕事で記者として観戦、取材していた)の顔もあった。

 報道関係者の基地というべきプレスセンター(スペイン語でセントロ・デ・プレンサ)は、試合場になる。各都市にあって、ブエノスアイレスは繁華街のコリエンテス通りに並行したサルミエント通りの「サンマルチン将軍文化センター」を使用していた。地下2階、地上3階のうち、わたしが一番よく利用するのは、地下1階のカフェテリア、2階のプレスルームと電話室。プレスルームには300台のタイプライターとデスクが配置され、その中央通路の台上に公報の印刷物を各国語別に置いてある。テレビはこのプレスルームや、階段のラウンジ(日本でいう踊り場)のイス席のそば、そして地下のカフェテリアにも備えつけ。すべて白黒で、カラーは会議室だけ。ここは人数が限られていて、前もって申し込んでおかなければならないので、たいていはカフェテリアということになる。

 テレビの前に陣取って、一番先にするのは、まず食べ物を注文すること。始まったらウェイターが試合に夢中になって、注文を取りにこないからだ。イタリアの記者は要領よく、早ばやとワインの瓶を取り寄せている。これなら試合中、手じゃくでやれるわけだ。わたしとロクさんは、例によってミルクコーヒー。


 手のこんだ足ワザ

 ブラジルのキックオフで始まった試合は、まずルーケがいきなり相手を後ろから押して倒すと、すぐブラジルがおかえしのファウルをする。白黒の小さな画面からロサリオの熱気が伝わってくるが、それでも、やはり間接的だから、こちらはわりあい平静に試合を目で追っていく。スタンドの記者席にいると、つい野次馬根性を発揮して、ゲームと同時にスタジアムあちこちの表情をみようとしたり、カメラで写そうとしたりする。ゲーム展開中でも、双眼鏡でボールとその近くの選手の動作を追いながら、また双眼鏡をおろして全体の配慮や、ボールから遠いところに目をやったりするものだ。

 テレビ観戦は、そんないろんな楽しみはない代わりに、限られた画面に集中するから、自然に1人ひとりのプレーがはっきり目に残るという利点もある。

 その小さな画面での楽しみは、まずアルゼンチンのアルディレスだった。彼の直線的な鋭いドリブルと、その後のスクエアパス。つまり、縦へ突進しておいて、味方へ横パスを入れるタイミングのうまさと、パスそのものの正確さ(コース、タマの強弱)は、1次リーグのときから密かに舌を巻いていた。2次リーグで彼らはロサリオに移り、テレビ観戦となった最初の対ポーランドでも、アルディレスのドリブルからケンペスの2点目のチャンスが生まれた。

 ブラジル戦でも、アルディレスの攻撃支援はすばらしかった。タッチラインぎわで前方のオルティスへ出した短くてカーブのかかったパスなどは、しびれさせるうまさがあった。そして、技巧を世界に誇るはずのブラジルが、彼のワザと速さに困惑して、体をぶつけてゆくのが面白かった。もっとも、そのためアルディレスが負傷して、後半は大柄なビジャに替わり、アルゼンチンの攻撃から精気が消えた。南米の2大サッカー王国のどちらが決勝へ進出するかは、6月21日の第3戦に賭けることになった。


 ピポピポの固いパン

 試合が終わると、町は急に騒がしくなる。コリエンテス大通りは、たちまち人の波となった。それを横目で見ながら、近くのレストラン「ピポピポ」にはる。ここも満員。試合中は1人もいなかったそうだ。大きなビフテキをナイフで切っていると、ポカン、ポカンというデカい音がする。見ると、固い大きなパンをパン入れの箱の中へ投げ込んでいるのだった。うすよごれたカゴから、これもゴミ箱のようなデカイ木箱にほうり込んでいるのを見れば、日本の食品衛生係はどう思うだろう。

 「こんなに万事におおざっぱな土地の人が、サッカーのテクニックはなぜ、アルディレスのように細かく、神経のゆき届いたプレーをするのだろう。そしてまた、何事にも巧緻を以って鳴る日本人、われわれがなぜサッカーでは、あれほど雑なプレーをするようになってしまったのだろうか」

 わたしとロクさんは、クアラルンプール以来の疑問を反すうしながら肉片をかみしめるのだった。

(サッカーマガジン 79年4月10日号)

↑ このページの先頭に戻る