賀川サッカーライブラリー Home > Stories > >歴史を証明するかオーストリア

歴史を証明するかオーストリア

 よかったネ日韓戦

 3月4日の日韓定期戦は、エキサイティングな試合だった。それぞれの局面での戦いに、日本代表の強い気迫が、そのままスタンドの観衆に伝わり、スタンドの熱気が、また、プレーヤーを鼓舞した。それは、まさに“サッカーの国際試合”だった。

 左サイドへ上がった落合からのグラウンダーのパスを碓井がけり込んだ1点目、永井が粘っこくもってからのセンタリングによる2点目をメモしながら、あるいは渡辺三男、藤島、前田の壮烈なミッドフィールド、あるいは、中村一義のタッチぎわのキープをノートに書きこみながら、私も、知らず知らずに声が大きくなっているのだった。

 長い歴史の間に、いろいろな種類の遊びや楽しみを創り出してきた人類だが、いまのところサッカーの国際試合に勝てるものは、ちょっと見当たらないのではないか――と私は、いつも思っている。それぞれの民族性や歴史を背景にもつ、この世界の共通で最高の面白さを、自分たちのホームで久しぶりに味わうことができたことを、日の丸を振ってくださった仲間たち、日本がボールを取り返すごとに拍手し、声を張りあげてくれたみなさんとともによろこびたい。

 もちろん、当日のいろいろなプレーについて称賛すべきものがあると同じくらいに、改良すべき点も指摘しなければならないが、それは別の機会に譲るとして、ここは表題のワールドカップの旅、世界共通・最高の楽しみの大集積場のルポのつづきに移る。


 ホテルの朝食

 1978年6月19日、ブエノスアイレスのプラサホテル、地下1階のコーヒーショップで私は遅い朝食をとっていた。コンチネンタル・ブレクファスト。コーヒーまたは紅茶にバター、ジャムつきのパン。パンは白いフランスパン1個、黒いのが1個、クロワッサン2個、食パン1切れ(トースト)。アルゼンチンのホテルは朝食は宿泊料に含まれないのが普通のようで、このコンチネンタルが3000ぺソ(1000円)。普通の喫茶店なら1000ペソだから、ずいぶん高いようだが、日本のホテルに比べればまずまずだろう。

 例によってブエノスアイレス・ヘラルドに目を通しながら、これからの予定を考える。前日の6月18日で2次リーグ第2戦が終わり、A組はオランダ、イタリア(各1勝1分け)と西ドイツ(2分け)の3チームが数字のうえでは決勝(3位決定も)進出の可能性を残し、B組もブラジル、アルゼンチン(各1勝1分け)、ポーランド(1勝1敗)がやはり望みを残していた。

 したがって、21日の2次リーグ第3戦はどの試合の勝敗も重要だし、それぞれに因縁がからんでいるが、ナマの観戦はブエノスアイレスでのオランダ―イタリアにして、ブラジル―ポーランド、アルゼンチン―ペルーはテレビ観戦。西ドイツ―オーストリアはオランダの試合とキックオフが同時刻なので、テレビもまず無理だろう。


 ユダヤ一家の波乱の時代

 夜、プレスセンターをのぞくと、試合のない日の例にもれず、まったく閑散としていた。そのスナックで、ラケル・シュバルツ夫人がシュバルツ家の波乱の歴史を語ってくれた。

 彼女の祖父はドイツに住んだユダヤ人。第1次大戦で兵士としてドイツのためにロシア戦線で戦い、そこで捕虜になり、シベリアに送られた。革命のどさくさにまぎれて収容所を脱走し、ロシア娘と手をたずさえて中国に移り、天津に住む。そして無事ドイツに帰り、幸福な家庭を営む。しかし、やがてナチスの天下となり、ユダヤ系ゆえに、一家はアルゼンチンへ渡ったという。

 ドイツを追われた一家であってもアルゼンチンで生まれ、育った彼女・ラケルにはドイツに対する憎しみはなく、むしろ、祖父や両親の話したドイツ語を自然に身につけ、ドイツでも2年ばかり暮らし、そしてプレスセンターではドイツ語の通訳として働いている。(送ってくれた新年のカードを見ると、現在はドイツ系の会社に就職しているとか)のだった。


 1938年のヒットラー

 彼女の話を聞きながら、ふと、思いを1930年代のドイツにはせる。そう、シュバルツ家がドイツを去る前の年、ヒットラーのドイツは、同じドイツ語圏のオーストリアを併合してしまう。
 そして、あのベルリン・オリンピックでイタリアと決勝を争ったオーストリア代表チーム(前々号参照)は、大ドイツ・チームに併合され、中部ヨーロッパで、本家イングランドに対抗する。当時のサッカー強国オーストリアも、またしばらく消失することになったのだった。

 私たちは、同じドイツ語圏としてオーストリア人を見るけれど、彼らのドイツへの対抗意識はなかなかのものだ。歴史を誇るウィーン子が「ドイツ人はヤボったい」などというのを聞いたこともある。オーストリアのサッカーのほうが柔軟で、ドイツのように融通のきかないのよりいいんだ、という航空会社のスタッフもいた。スキーの大名人、ルディ・マットが「オーストリアではトニー・ザイラーといわず、トニー・サイラーと呼ぶ。にごり音を使うのは粋(いき)を好むオーストリア人に合わないのだ。したがって、ザルツブルグはドイツ語読みで、オーストリアではサルツブルクという」と強調したのも思い出す(もっともドイツでもラインラントへ行くと、ゾーリンゲンではなくソーリンゲンというが)。

 こういう歴史的背景を見ると、2次リーグ最終戦、すでに脱落したオーストリアは、西ドイツに対して、「インターナショナル」のタイトルマッチを挑むに違いない。たとえ、いまのオーストリアの代表が西ドイツのリーグに籍をおいているものが多いとしても、1つの地域としてまとまったときに、そこにドイツに対する対抗意識が湧き上がってくるだろう。ストライカーのクランクルやFBのサラなどのいい攻めもあるだろう。これは見逃すのには、いささか惜しいゲームになるのではないか――。
 トップ級の“国際試合”を見てゆくというぜいたくな楽しみのなかで、2次リーグの終末にあたって、私はどのカードも落とすに忍びないという、ぜいたくな欲望に頭を悩ますのだった。

(サッカーマガジン 79年4月25日号)

↑ このページの先頭に戻る