賀川サッカーライブラリー Home > Stories > >若いロッシと老練リベリーノ

若いロッシと老練リベリーノ

 日本サッカー狂会の16年半

 池原謙一郎さんとその仲間がつくっている日本サッカー狂会の会報が今度で50号になるという。会が生まれたのが、東京オリンピックの2年前の3国対抗(1962年12月)のときだから、もう16年半とか。サッカー狂の集まりらしく、会報の内容も会員の個性があふれていて、私のように古いプレスマンで、どこかで協会に関係もしている者には、ときに耳の痛い指摘もある。こういう仲間うちの会報を、とぎれることなく(年に3、4回のペースで)出してゆくのは大変だと思う。

 この会の大きな目的は“日本サッカーの応援”にあって、日韓戦などには京都や大阪あたりからも日の丸をかついだ会員が国立競技場へ集まって、例の「ニッポン、チャチャ、チャッ」をやる。なんといっても、スポーツは見るものでなく、するものだから、サッカーの試合を見に行っても“観戦”するのではなく“参戦”し、さあしっかりやれーェと絶叫すれば、たいていの試合は面白くなる。その声を出すきっかけを、国際試合では、狂会の“ニッポン、チャチャ、チャッ”がつくってくれる。

 野球では広島の「コージ(山本浩二)コール」や甲子園の「カケフ(掛布)コール」が定着し、ファンの参戦意識を増幅させているが、狂会の“ニッポン・・・・・・”も、さらに全国のスタジアムに広まってほしい。ジャパン・カップやユースで、皆さん、いっしょに“チャチャ、チャッ”をやってみては・・・・・・。


 フィエスタ・アルヘンチナ

 さて、78年ワールドカップのアルゼンチン。ここはまた、青・白の国旗の波がスタジアムを埋める。6月24日、3位決定のイタリア―ブラジル戦当日も、ファンはアルゼンチンの国旗を手に、ぞくぞくとリバープレートへ向かっていった。

 ホテルからプレスセンターへゆく途中、フロリダ通りのディスケリア(レコード店)から「ゴール、ゴル、ゴォル、ゴォル、ゴーオールーー」という、得点のときのアナウンスが聞こえる。中へはいってみると「フェイスタ・アルヘンチナ・ロス・カンペオネス(チャンピオン)」というレコードを売っている。こちらへ来て、ラジオやテレビのアナウンサーの得点の際の絶叫のすさまじいのにおそれいった。NHKの放送のときにも、お聞きになった人もあるはず。それがさっそくレコードになり、1次リーグのハンガリー戦(2−1)、フランス戦(2−1)、2次リーグ、対ポーランド(2−0)のアルゼンチンの得点の場面と、PKをGKフィジョールが防ぐのとを合わせた7つのシーンの放送をアランヒオ(アナウンサーらしい)が再現し、1、2面合わせて9曲の間へ組み込んである。

 ちょっと実際に聞いた放送のものと調子が違うような気もしたが、とにかく買っておく。5200ペソ(1400円)、曲のほうは、さきに(78年9月25日号)紹介した「マルチャ・オフィシアル・デル・ムンディアル78(78ワールドカップ公式マーチ)や西ドイツ製の「ブエノス・ディアス・アルヘンチーナ」をはじめ、大会でなじみになったものばかり、1面に納められている「バモス(ゆけ)、アルヘンチナ」は、そのリズムが歌いやすく、踊りやすいところから、一番親しまれた曲だ。


 イタリア式チョップ・チョップ・シュー

 3位決定戦は、もちろん優勝を争うという緊張感はなかったけれども両方が持ち味を出して、とてもいい試合だった。結局はブラジルの強いシュート力、今度もまたネリーニョの右足のロングシュートと、ディルセウの左足のボレーとが、2−1の逆転劇を演じたのだが、前半の終わりに見せたイタリアの攻撃もまた楽しかった。アントニョーニのもち上がりから右のロッシにボールがわたり、ロッシがアマラウを右へ(タテに)はずして、浮きダマをゴールマウス(左寄り)へ送り、カウジオのヘディングで奪った1点目と、そのあとの5分間のロッシに2度の攻撃は圧巻だった。ひとつは得点から2分後、左サイドで短いパスを5本交換しておいて、いきなりタテへ送るイタリア式“チョップ・チョップ・シュー(短・短・長)”で左前のロッシへ。ロッシが中へボールを浮かし、ブラジルFBが返したのをサラのボレーシュート、そのリバウンドをロッシが、そして、そのまたリバウンドをカウジオがシュート(バーに当たって外れる)した。もうひとつは43分、オフサイド・トラップの逆をついたロッシが中央右寄りに出てGKレオンと正対してシュートしたもの(レオンの頭に当たってCK)。ロッシの速さとともに、ブラジルの守りもまた、崩れることがあると面白かった。

 ブラジルでは同点にしてからのリベリーノの投入がアクセントとなって、なんとなく攻め上がっていた感のあるこのチームに、1本スジがとおって見えるのが不思議だった。そして、彼のフェイントの多い左足がいったん左へ出すと見せて、中央のメンドンサへ渡したライナーの中距離パスから、勝ち越しのゴールが生まれた。70年のペレやアルベルトやトスタンの、あの栄光のチームの若手であったリベリーノは、その栄光の重荷を背負って、74年、78年のワールドカップを戦わなければならなかったが、その最後の試合に、彼らしいプレーを見せてくれたのがよかった。

 好試合に満足してスタジアムを出る私たちの前で、多くの若者が「バモ、バモ、アルヘンチーナ」と踊りながら歩いていた。彼らはすでに、明日の試合に“参戦”しているのだった。

(サッカーマガジン 79年6月25日号)

↑ このページの先頭に戻る