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決勝の日、世界はひとつに

 サンロレンソのサポーター

 「フットボールはすべての国を結ぶスポーツです。日本は、いまや工業技術の面で世界に知られていますが大衆に愛されるフットボールでも活躍することで、世界の大衆の心と交流することができるでしょう。私たちアルゼンチン人は、78年ムンディアルの成功で大きな自信を得たのです」――5月27日の朝、ジャパン・カップ79のB組第1戦に出場するサンロレンソのパグノ団長を京都のステーション・ホテルに訪ねていったとき、上品な紳士に会った。ブエノスアイレスに住む公認会計士のセレスセンシオ氏。熱烈なサンロレンソのファンで、10人の仲間と応援にやってきたという。私が記者と聞いて、名刺の裏にさらさらと書いて、日本の人に伝えてほしいといったのが冒頭のことばだった。


 ダンディーの団長さんは86歳

 ステーション・ホテルに近い、タワーホテルにダンディー・ユナイテッドを訪ねる。86歳のロバートソン団長は「世界各地へチームとともに旅行した。アメリカへも行った。韓国へも行った。だが、日本へは初めて」と楽しそう。
「74年にフランクフルト(西ドイツ)で、78年にメンドーサ(アルゼンチン)で、私はスコットランド代表を見ましたよ」という私に老団長は「ゲミルのあのオランダ戦の得点をナマで見てくれたか」と目を輝かす。

 1966年にスコットランドからスターリング・アルビオンというチームが来日した。地味だがいい試合をした(対日本選抜3−1、対全日本4−2)。そのときヘンリー・ホールという19歳の小柄なストライカーがいた。第2戦できれいなボレーシュートをきめた。その話に及ぶと、
「ホールは昨シーズンまでうちのクラブにいた。いいプレーヤーだったが、いま市の体育の責任者になっている」

 当時彼は、体育大学の1年生で、将来は体育教師になるんだといっていた。アルびオンのあのころの若手はパートタイム(プロ)で、月収7〜10万円、花形のホールは平均よりは上だったらしい。以来13年、好きなサッカーでかせぎ、資格を取り選手をやめたあと、体育の仕事をする――計画どおりの人生を着実に歩んでいるのだろう。


 ペインの間のとり方

 13年前の“小さな”ホールと同じようなのが、ことしのダンディーにいた。グレーム・ペイン。165センチ。ホールのように得点もするが、“つなぎ”がすばらしい。対サンロレンソ戦でのダンディーの攻めはドッズのヘディング、スターロックの反転シュート、FBから駆け上がってのスチュワートの長距離砲など、11人の役柄が、わりあいはっきりしていて、それがペインによってうまくつながり、かみあっていた。23歳のペインで驚くのは“間”のとり方のうまさだ。“芸”では“間”のうるさい日本で、近ごろのサッカーでは見ることは少ないのに、タフとハードが売り物のスコットランドの小さな町にちゃんといるとは。

 世界は広いというべきか。


 ブラスバンドと電飾

 広い世界から集まってきた16ヶ国による第11回ワールドカップを追う私の旅日記も前号(6月25日号)で3位決定まで終わった。きょうは決勝の当日、1978年6月25日のページをめくろう。

 大会最終日、日曜の朝、私の気分は落ち着かなかった。5月23日に日本を出てから1ヵ月、その間に新聞の仕事のほうは、まず順調にいった。日本チームの出場していない外国チーム同士の対戦となる大会をその日のニュースとして扱ってみようと、やってみた74年が成功だったのに気をよくして、こんどが2回目。夜の12時(つまり日本の正午)の送稿のため、ブエノスアイレスのナイトライフを楽しむことはできなかったが、まずは今回もうまくいった。世界中がどんなにこの競技を楽しみ、大会を通して心をかよわせるかを、多くのスポーツファンに読んでいただいたと思う。

 そんなふうに仕事の段取りはほとんど終わろうとしているのに、気持のイライラは抜けそうになかった。

 それは1つには、初めて来たラテンの国アルゼンチンから去り難い思いが胸にこもっていたからかもしれない。そしてまた、同時に、すっかり仲よくなったこの国の人たちの、アルゼンチン対オランダ戦へかける不安と期待が感染したためかもしれない。

*   *

 早ばやとリバープレートへ着いたおかげで、電光掲示板の図型のいたずらを楽しむ。足の絵が出て、ボールをける、それが飛んでいってゴールにはいる。するとGOL(ゴール)の文字が小さいのから大きくなっていく。つまり「ゴル、ゴル、ゴールー」を電飾でやる。電気遊びがすむと、こんどは6つのブラスバンドの行進。サンロレンソ行進曲などの勇壮なマーチと、楽隊の色彩、そしてそれに呼応するスタンドの“青と白”で場内は一挙に華やいだムードになった。

 そして、午後2時15分、まずアルゼンチン国歌、そしてオランダ国歌の吹奏。世界100ヵ国にテレビの映像がうつり、ブエノスアイレスの街路から人の姿は消えた。セレスセンシオ氏もパグノ氏も、すべてのアルゼンチン人の願いはただ1つに凝縮された。

(サッカーマガジン 79年7月10日号)

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