賀川サッカーライブラリー Home > Stories > >世界を制した強烈な個性の組み合わせ

世界を制した強烈な個性の組み合わせ

8月にケンペスが見られる

 東京12チャンネルの開局15周年企画“ワールドサッカー79”でマリオ・ケンペスが8月に来日することになった。オランダの顔ぶれがもうひとつパッとしない(ニースケンスを呼ぶ話もあるようだが)ので、“ワールドカップ決勝の再現”という大構想からは、後退しているが、ともかくアルゼンチンのベルトーニ、ケンペス、ハウスマンの攻撃陣やバレンシア、タランティニ、L・カルバンなどのタレントたちをナマで見られるのは、まことにすばらしい。

 ジャパン・カップはいいチームを集めながら、協会の宣伝不足で多くの人に見てもらえなかったが、こんどは1ヵ月半の間に、十分に話題を浸透させ、最盛期のスター群を迎えるようにしてほしい。

 遅れた決勝のキックオフ

 さて、わたしのワールドカップの旅は、前回(7月10日号)から決勝当日に移っている。それは
1978年6月25日。そう、この7月25日号発売日のちょうど一年前に当たる。



 世界中のテレビの映像に写し出された決勝戦のキックオフは、午後3時のはずが、予期せぬ“物言い”のために遅れる。アルゼンチンのパサレラ主将がルネ・ファン・デ・ケルクホフのほう帯をした右手が危険だとし、ほう帯の下の右手を固めている石こうを取るように要求した。記者席とは反対側のスタンド近くでのやりとりを、双眼鏡でのぞきながら、ふと4年前の西ドイツでも、決勝開始が定刻より2分遅れたのを思い出す(試合前のバンド行進の標識が残っていたため)。

 そういえば、あのときのオランダのメンバーのうち7人が、いまリバープレートのグラウンドに散らばっている。74年にベッケンバウアーの率いる強敵西ドイツと、それを声援する7万8千大観衆を相手に戦った彼らは、再び世界のヒノキ舞台で大観衆のほとんどを向こうにまわして試合に臨む。彼らの胸の内には、どんな思いが秘められているのか――。

ほう帯事件が解決する間、体を動かしながら待つ、レンセンブリンクのさり気ない顔付きからは、何も読み取れなかったが・・・・・・。


 噛み合った個性の歯車

 決勝の詳細については、すでに多くの機会に語られているが、わたしは、この試合を振り返って自分のメモを開くたびに、いつも新しい感動をうける。

 前半38分のケンペスのゴール。左タッチラインのスローインに始まりアルディレスのドリブル、ルーケへのパス、ルーケからケンペスへ、ケンペスが快速で走りこみながら、左足でボールを前に押し出し、相手のリーチの外でシュートする。スローインという停止球から攻撃が始まり、相手の守りも安定していた状態。それを1つひとつ崩していったプレー、すべてが、それぞれの個性がつながって生まれたゴールだった。

 アルゼンチンの選手はボール扱いが上手――とひと口にいうが、そのボールのもち方は、1人ひとりが違う。そのもち方、体力、性格などから、1人のプレーヤーの個性がつくられる。たとえばベルトーニ、強いキックをするための彼の自信のある角度は右斜めしかない。ハンガリー戦の得点も、この決勝の3点目も、同じ角度のシュートで決めている。

 こうしたボールの扱い方(もち方、けり方)を基礎とした個性を、お互いが理解し、組み合わせていくのがチームワーク。それが気力と体力の充実で大いに高まったのが、この日のアルゼンチン代表であったろう。


 芸術的な3点目

 試合を決定した2点目は、ケンペスのドリブルシュート。彼の個人的な強さだったが、ダメ押しともいうべき3点目の見事な構成と、その激場的な締めくくりに言葉も出なかった。FKでロングパスをケンペスがけるのかと相手に思わせておいて、左サイドでパスのやりとり、そしてケンペスの前方に必要な空間をつくって彼にボールを渡す。ケンペスの壮烈な突進と、その後のベルトーニとの浮き球の曲芸的なやりとり、完結はベルトーニのシュート。

 ケンペスがFKのボールを置いて間合いをとったときは、横あいから出てきたラローサがキックして、タランティニに渡したが、彼らの頭の中には、次の展開の図面が浮かんでいたのだろうか・・・・・・。暗黙のうちに互いの特性を生かす動作が生まれ、最高のコンビプレーにつながっていく局面は、舞台装置の壮大さとともに私の頭から消えることはない。


 ビクトリーランは15番

 座席37649、立ち見37000、それに記者席1615、ロイヤルボックス、役員席345、合計
76609人の切符保持者、その他あわせて8万人がスタジアムでナマの試合を見たという。ミュンヘンも78500で、ほぼ同じだったがここのスタンドは3層になっているので、最上段がミュンヘンより近く、グラウンドにかぶさってくる感じ、そのスタジアム全体に青と白のアルゼンチン国旗が揺れ動き、紙吹雪が舞う。

 試合の2時間も前から続いていた会場の“アルヘンチーナ”の掛け声はときに“ゴール”の大絶叫となり、それが、3点目でついに、“ゴール、ゴール、アルヘンチーナ、カンペオン(チャンピオン)”となった。記者席も総立ち、抱き合い、声をふるわせ、陶酔の極みというべきか。

 午後5時33分にタイムアップ。しばらく間をおいて、ビデラ大統領がパサレラ主将へFIFAワールドカップを渡す。ビクトリーランが始まる。私の双眼鏡は誇らしげなパサレラの顔をとらえる。そしてケンペスは・・・・・・。不思議なことに彼は背番号10のユニホームではなく、オルギンと同じ15番を着ていた。熱狂的なファンにユニホームをむしり取られたとか。

 世界のサッカーの祭りは終わった。しかし、アルゼンチンの人たちのフィエスタはまだ続く。                             

(サッカーマガジン 79年7月25日号)

↑ このページの先頭に戻る