賀川サッカーライブラリー Home > Stories > >戦いは終わりフィエスタは続く

戦いは終わりフィエスタは続く

新鋭マラドーナのドリブル

 FIFAの創立75周年記念試合、アルゼンチン対オランダ(5月22日、ベルン)のテレビ放映はずいぶん見ごたえがあった。とくにアルゼンチンの若いスターであるディエゴ・マラドーナがすばらしかった。

 利き足は左のようだが、右でもパスを出す。何よりの驚きは、高速ドリブルのなかで、足にくっつけているボールを正確に味方に渡すこと。それも相手の守りの裏へ、大胆なスルーパスを送り込むことだ。相手に読み取りにくいタイミングであるのも面白い。すでに仲間を有効に働かせる術(すべ)を心得ている彼のプレーと、その特徴のあるガッシリした体つきは、18歳という年齢が不思議に思えるほどだ。

 彼は8月25日から日本で開かれるワールドユース選手権に主将として来るという。やはり、アルゼンチンはタレントの宝庫だ。


プレスバスの中もゴォールー

 “ゴォール、ゴォールー、アルヘンチーナ。ケンペス・・・・・・”

 1978年6月25日。午後6時半になっていただろうか。優勝の興奮さめぬまま、スタジアムから流れ出る人の波をかきわけ、リバープレート・スタジアムの北側(ラプラタ河側)のルゴネス通りに置いてあるプレス用バスに乗り込む。走り出してしばらくすると、右側の席から“ゴール”の絶叫が聞こえる。ハンディラジオの録音を聞きながら、アルゼンチンの記者が“悦”にいっている。

 これはチャンスと、私は自分のテープレコーダーで、その“ケンペース”を録音する。

 と、今度は後ろの席から「録音か、いいアイディアだ」と声がかかる。アメリカのカリフォルニアから来ているという。「決勝もよかった。しかし驚いたのは運営のすばらしいことだ。まったく感心した」というのが彼の感想。


オベリスク前の大群衆

 プレスセンターの中も騒然としていた。2階で試合の記録をもらい、地下のスナックでコーヒーを飲みながら原稿を書く。試合が終われば、記者は第2の仕事、原稿を書き、送稿することの始まりだ。一方、富越君たちカメラマンは、まだ取材の用事がある。家々から飛び出して来た人たちはオベリスクの広場に集まってくるから、それを撮影するんだ、という。オベリスクというブエノスアイレス市誕生400年を記念して、1934年につくられた、高さ66メートルの白色の塔。“7月9日通り”とコリエンテス通りが交差するところにあって、イルミネーションにこの白塔がはえる夜景は名物の1つ。市民は何かあるとこの塔の広場に集まるらしい。

 何万という大群衆を写すには高層ビルの上からだ。じゃあ、いいアングルのホテルの部屋をかりなくちゃあ――とカメラマンたちは出てゆく。私は、この夜はまず決勝のレポートを6月27日付の新聞用、それに6月30日付の特集用の原稿も電話で日本へ送らなければならない。そしてそのあと、サッカー・マガジンの原稿を翌日の昼までに仕上げる約束だ。

 合い間に、ラジオの記者にコメントを求められる。西ドイツのときにはビルト・ツァイトゥングに感想を聞かれた。活字になってみると「おめでとう」をいってないのに気がついたものだ。今度は“フェリシタシオン”を忘れないようにする。


大統領はオランダ人?

 翌6月26日午後、購入した新聞や図書など参考資料の発送を依頼にゆく。何本かのフィルムを送るためにサンマルチン439の航空貨物取り扱い店「デル・フィーノ」へ持ってゆく。途中、オベリスク広場の前でタクシーが立ち往生。なんと、一夜明けたのに、またまた人の渦だ。前夜と違って、今度は若者ばかり。

 アルゼンチンが優勝したら、翌日は学校が休みになるかどうかが、しばらく町の話題となっていた。結局、休日にはしなかったのだが、26日に登校した学生たちは、午後から祝賀パレードと称して、ほとんどが学校を抜け出したらしい。小中学生も例外ではなかったという。

 オベリスク広場に集まった大学生たちは、大統領官邸前まで流れて、ここで歌い、踊り、ついには大統領に呼びかける。

 「大統領、出ていらっしゃい。顔を見せなければ、あなたのことをオランダ人といいますよ」

 ビデラ大統領はこれに応じ(それまでのたびたびのテロ事件のことを考えると、まったく異例のことだ)て姿を現しただけでなく、学生たちの代表と会見し「アルゼンチンを立派な国にするために若い力を貸してほしい」と話したという。


ワールドユースで会おう

 プレスセンターへお別れにゆく。毎夜12時に大阪へ電話をつないで、電話番号もすっかり覚えてくれたオペレーター。インフォメーションのコピーをこまめに補充してくれたプレスルームの係。私の仕事場でもあった地下のスナック。飛行機の手配をしてくれたAR航空やAU航空の出張カウンター。それぞれの係員に心からお礼をいう。この大会でのプレスサービスはまことに大したものだった。

 ブエノスアイレス市内では雨が降れば電話は通じない――飛行機の切符を買うのに(コンピューターが導入されていなかったから)半日はかかる――などといった不便を、ここでは感じないですんだ。

 豊かな資源に恵まれながら、現代的機械化の遅れたこの国が、ワールドカップを機会に、新しい時代を迎えようとする意気込みがプレスセンターに象徴されていたと思う。

   *

 2階のロビーにトルコのイズミル紙のカメラマンがいた。前夜遅くまで駆け回って疲れたらしく、げんなりした顔をしていたが、「来年、東京のユース大会で会えるだろう」と私の手を握った。

(サッカーマガジン 79年8月10日号)

↑ このページの先頭に戻る