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フフイ、ボゴダ、マイアミ

エルグラフィコの特集

 ブエノスアイレスの知人が送ってくれたスポーツ週刊誌『エルグラフィコ』の6月26日号は、ワールドカップ1周年特集号で、この6月25日にリバープレートで催されたアルゼンチン対世界選抜(レスト・オブ・ザ・ワールド)のレポートのほかに、1年前の決勝を50枚の組写真で再現しているので面白かった。

 その写真の中に、後半44分のレンセンブリンクのシュートの場面があった。タイムアップ直前に放った彼のシュートは、ゴール左ポストを直撃してゴールキックとなり、得点にならなかったが、あれがもし10センチ内側へ飛んでいたら、どうだったか・・・・・・。


買いそこねた未練

 1978年6月27日午前9時ブエノスアイレスのエセイサ国際空港で、アルゼンチン航空366便に乗り込む私の足どりは重かった。原稿を書きあげた後、荷物の整理でほとんど寝る時間がなく、体も頭もぼやーっとしていたし、すっかり馴染んだ土地への立ち去り難い思いで、いささか気が重くなっていた。

 それに早朝のため、ほとんどの店が閉まっていて、ショッピングの追加ができないのもがっかりだった。

 買物といえば、この旅行で買いそこねて、いまだに惜しいなと思っているものがいくつかある。

 1つはスサーナ・ソロ女史のサッカーの絵。彼女は1927年生まれで、1949年に美術学校を卒業し、ある時期にサッカーに魅力を感じてこの18年間、描き続けてきたという。

 大会中にブエノス市内スイパチャ通り1168の画廊に飾られた作品は、サッカーとサッカー選手のスピードと力強さを見事にとらえ、得点や勝利の喜びを画中に謳いあげていた。せっかくの“円高”のおりに、小品を1つ譲ってもらえばよかったのに・・・・・・。
 もう1つは、ホテルの近く、フロリダ通りの古物店で見た「マッチ細工」。マッチで22人のプレーヤーとスタジアムをつくり、それがなんとガラスのビンにはいっている。名付けて“マッチス・イン・マッチ”非売品というので引き下がったが、もう少し粘って交渉すれば、あるいは・・・・・・。


南米大陸の縦断

 「こちら機長です。この機は・・・」離陸してしばらく後、アナウンスを聞いて驚く。

 初めてのパンナム機のつもりが席が取れず変更したので、これも同様、ニューヨークへ直行するものと思ったのだが、アルゼンチン国内を北上し、フフイに降り、その後コロンビアのボゴタ、フロリダのマイアミにも止まるという。

 サン・サルバドル・デ・フフイの飛行場に着いたのは10時半を過ぎていたか。南緯24度30分のここでは、太陽がギラギラと輝いている。飛行場のすぐ北にある州都から北へは、リオ・グランデ河の大渓谷に点々と町がつくられ、周囲の岩肌のさまざまな色彩とともに、特異な景観で知られている、という。ただしアルゼンチンに関する案内書をみても、このあたりの記述はほとんどない。西の空にはアンデスの東端のチヤン峰(6200メートル)が白く光っている。

 まわりの荒涼たる風景とはまったく異質のモダンな空港のデッキに、白い上っ張りを着た子供たちが30人ばかりいた。近くの小学生が空港を見学に来たという。ほとんどがインディオとの混血らしい。スペイン人の入植は16世紀からで、いまでは人口30万人、北はボリビア、西はチリと国境を画するこの州は、砂糖キビ、タバコなどの農作物のほか亜鉛、鉛、銀のほか鉄も産出する。“未来の国”アルゼンチンの中でも未来の州といえる。

 ついでながら、ワールドカップ代表、あの攻撃的HBバレンシアも、この土地の産だ。


エル・ドラドとインカのツボ

 フフイからボゴタまで約4時間、AR機の機内サービスは上々で、昼食は味もよく、量も豊か。ワインの無料もけっこうだが、ルートマップのないのが惜しい。

 ボゴタは高度2630メートル。エル・ドラド(黄金郷)空港でも1時間の給油。ここはトランジットの乗客も免税店のあるプロムナードを歩ける。なにしろ黄金とエメラルドの国。金や宝石の細工の陳列を見ているだけでも飽きることはない。真偽はともかく、古いインカのツボが鑑定書付で売られているのにも、買い気をそそられる。

 1986年、ワールドカップを開くことになっているこの国で試合をするためには、またメキシコ(1970年開催)と同様に、高地対策が話題になるだろう。

 現地時刻午後3時30分にボゴタを飛び立ち、カリブ海を突っ切ってマイアミまで3時間半。タンパペイ・ローディーズやフォートローダーデール・ストライカーズなどNASL(北米サッカー・リーグ)に所属しているチームが、この近くにいると思えば、かつては無縁にみえたフロリダ半島にも、にわかに親しみがもてる。ただしここでも、給油整備の間は小さな部屋に閉じ込められたままだった。

あすはコスモス

 3ヶ所にストップ。延々12時間の後、ニューヨークのケネディ空港に着く。夜の遅いおかげで税関の検査も早ばやとすませてくれる。

 冬のブエノスから一気に夏の空気の中へ放り出された私を、平松純子夫人が迎えに来てくれた。元フィギュアの日本チャンピオン。私とは彼女が13歳のときからの長い付き合い。ニューヨーク駐在の商社マンの奥さん(ことしから日本で暮らしている)で2児の母でもある夫人はポーターを呼び、荷物を運ばせ、車を発進させると、あいさつもそこそこにこういった。
 「あすの夜は、おっしゃったとおりに、コスモスの試合の切符を買っておきました。うちの子供とお供します。昼は近代美術館でモネ(フランス印象派)の展示を見に行きましょう」

 ワールドカップは終わっても、私のサッカー巡礼はまだ続く。

(サッカーマガジン 79年8月25日号)

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