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コスモス・ショー

コスモス・ショー

 1年余り連載しました「78年ワールドカップの旅から」も今号が最終回です。ご愛読ありがとうございました。次回のスペイン大会も「82年ワールドカップの旅」の連載を予定しています。お楽しみに。


ジャイアンツ・スタジアム

 「ダディ・ダディ、ディド・ユー・シー・イット」(パパ、あれ、見た)
 「オー、グレート」
 「ダディ・・・・・・」

 甲高い子供たちの声。拍手。そして場内アナウンス。
 「さあ、コスモスのコーナーキックです。キッカーはフランツ・ベッケンバウアーです。コスモスのチャンスですよ」。

 すると電光掲示板に、大きな手が現れて拍手の格好をしてみせる。その手をたたくリズムに合わせてスタンドは叫ぶ。「ゴーゴー」。相手側アズテックスのゴール後ろにいるチア・リーダーたちは、ポム・ポン(飾りふさ)を振り上げ、回し、足を高くけり上げて、これまた「ゴーゴー」・・・・・・。

 1978年6月28日、アメリカ合衆国ニュージャージー州、イースト・ラザフォードのジャイアンツ・スタジアムで、私はテープレコーダーを持って来なかったのを悔やむはめになった。

 4年前の失敗にこりて、78年ワールドカップは試合場での雰囲気、とくに観客の応援のリズムやトーンを正確に記録するために、テープレコーダーを持って歩いたものだ。おかげで開会式でリバープレートの観衆が起立して歌ったアルゼンチン国歌や、決勝の“ゴォール”の際の周囲の興奮など、バッチリ、レコーディングしたのに・・・・・・。

 ジャイアンツ・スタジアムはまぎれもなくUSAの新しいサッカーの中心地。そして、その雰囲気はヨーロッパでも、南米でも、アジアでもなく、まぎれもなくアメリカのものだ。


マンハッタンから15キロ

 ブエノスアイレスからフフイ、ボゴタ、マイアミを経由してJ・Fケネディ空港に前夜遅く到着した私は、この日の午後、メトロポリタン美術館のモネ展をのぞき、5番街でショッピングを済ませてから、午後8時45分開始のコスモス対ロサンゼルス・アズテックス戦に駆けつけたのだった。ニューヨークに寄るたびに世話になる平松博氏宅(前号参照)はニューヨークとはハドソン河を隔てた対岸(ワシントン橋を渡る)ニュージャージー州の住宅地にあって、コスモスの本拠地ともそう遠くはない。余裕をみておいたが、球場の隣にあるメドウランド競馬場で繋駕(けいが)レースが行われていて、両方のお客で道路が大渋滞。席に着いたときには、試合はすでに始まっていた。

 アメリカン・フットボールとサッカーの専用に造られたこの球場は、78600人収容、南米やヨーロッパと違って全部座席があり、タマゴ型のスタンドは、すべての席からグラウンドのプレーが見られるよう設計されているとか(実際は自分の側のコーナーは見えなかったが)。入口で入場券を見せると、あのエスカレーターで上がってくれという。エスカレーターは24基。エレベーターは4基、それに8つのランプウエーがあって、出入りはきわめてスムーズだ。ただし、乗用車2万台、バス400台の収容力を持つというパーキングは、広さはともかく、誘導員が不慣れのせいか、出し入れにずいぶん時間を食った。


人工芝のベンケンバウアー

 入場料は10ドルと6ドル。私たちは6ドル(14歳以上と65歳以上は4ドル)の席。ゴールライン近くの2階だった。

 試合は1点リードされたコスモスが追い上げて、まずウィルソンが同点とし、後半もミッドフィールドを制圧して攻めつづける。

 照明に映える人工芝(アストロターフ)の上でベッケンバウアー(彼はリベロではなくミッドフィルダーだった)が、例の優雅なキープから3度、タッチ際の味方へ、それも相手のFBと併走するところへピタリと合わせる中距離パスを出すと、それだけで拍手がわき、喚声があがる。もっとも、3日前までのワールドカップの壮烈な試合に慣れた目には、ずいぶんスローでのんびりして見える。ただし、相手守備線を突破するときの時間的な早さは、ハントにしても、キナーリャにしても職人芸で、それに合わせるボギチェピッチのスルーパスはなかなかの見ものだった。


チア・リーダーズは美人ぞろい

 アメフトやバスケットボール並みにチア・リーダーがいて、15人が電光掲示板と反対側のゴール後ろ、つまり、私たちの席に近い側にいる。マンハッタンのモデル・エージェントを通じ、100人を超える応募者のなかから選んだというだけに、美人ぞろい。“タイム”のないサッカーで、いつ踊るのかと思ってしばらく注目すると、ずーっと体を動かしつづけている。コスモスの歌に合わせて90分間、休みなく躍動することになっているとか。面白かったのはコスモスが2−1と逆にリードし、タイムアップが近づくとあと何秒が掲示板に映る、アイスホッケーやバスケットボールの手法だが、そのタイム表示に合わせて5秒(ファイブ)、4秒(フォー)・・・0(ゼロ)とスタンドは秒読みのコーラス。0が出たところでホイッスル。

 この夜の観客数は4万3000余人。終了10分前だったかに、電光で観客数を示しておいて「サンキュウ」とつづく。それを見て、お客はまた拍手。女性が半数近くいるのは、さすがにウーマンリブの本家か。いや、それだけでなく「すべての人が楽しめるサッカー」というキャッチフレーズが浸透して、いま合衆国では、少年少女のサッカー熱がすごい。そういえば、私の席の近所でわめいている女の子たちがサッカーにくわしいこと。選手の名前をよく知っているし、よいプレーやファウルに対する反応も鋭い。

 南米やヨーロッパほどはスタンドでチームの旗にはお目にかからないが、コスモスのマーク入りペナントやバッジや帽子を売っているところは変わりない。短いサオについたペナントが1ドル50セント。当日のプログラムを兼ねたNASL機関誌の“キック”が1ドル50セント。同誌の中にはサッカーのサマーキャンプの広告があった。いわくペレのキャンプ、キナーリャのアカデミー、ワーナー・ロス(主将)のサファリなど・・・・・・。ニューヨーク・タイムズによると、ベッケンバウアーの子供たちも夏休みにはスイスからやって来て、ペレのキャンプにはいるのだという。

 帰りの車中、遠ざかる巨大なスタジアムに目をやりながら、私は4年の変化を思った。74年ワールドカップのあと、フランクフルトから大西洋を越えてきたときには、ニューヨークでサッカーの「臭い」をかぐことはむずかしかった。もちろん、NASLも発足7シーズン目にはいっていた。歴史の古いASL(アメリカン・サッカー・リーグ)は1934年から40年間もつづいていたのに・・・・・・。

 白黒ボールやチップ・アンド・タップの氾濫していたヨーロッパからみたニューヨークは、まったく別の世界のようだった。

 それが、この変わりようだ。いまではブエノスアイレスのワールドカップで見られなかったベッケンバウアーのアウトサイドキックの長いパスを、ニューヨークで楽しむことができるのだ。1886年、いまのUSSFA(ユナイテッド・ステーツ・サッカー・フットボール・アソシエーション)が設立されてから、合衆国のサッカーは90年余の歴史を経て、いよいよ新しい時代にはいった。最近もトルコからこんな話が伝わってきた。トルコ駐留のNATO(北大西洋条約機構)軍に勤務する米軍人の子弟がサッカーのチームをつくり、土地の少年チームと試合をし、ついには市の少年リーグにはいるというのだ。かつて、アジアや欧州に駐留した米軍の若者たちは、野球やアメフトという、現地のものには通じない競技を自分たちだけで楽しんでいたものだ。ペレやコスモスのおかげで、アメリカの子供たちも、世界の子供と「共通の言葉」をもちはじめた、といえる。

 ヨーロッパや南米、つまりサッカー地域からの移民の流入や、少年層への長期にわたる浸透策などの基盤があったにしろ、コスモスを頂点とするNASL関係者の短期間の成功と、それにかけたバイタリティーには頭の下がる思いだった。

*   *

 さて、私のワールドカップの旅も終わらせていただくことになる。

 翌日、つまり、1978年6月29日、ケネディ空港11時発のPA801便で一気に成田に向かい、成田で乗り換えて大阪へ着いたのが6月30日午後7時だった。途中、北部カナダの凍結した湖沼群の白い氷の部分が、往路より小さくなっていた。大阪空港で機を出るとき、ブエノスアイレスで買った毛皮のコートを上の棚に忘れる始末。疲れてぐっすり寝込んだのと、大阪空港の暑さがコートを意識の外へ追いやったに違いない。

 5月23日午後3時40分に大阪を飛び立ってから1ヶ月と1週間、いいプレーヤーのよいプレーを見て、それを字に写しかえてレポートを送るという楽しい作業に酔い続けた日々でもあった。そのなかで、ラテンの選手たちがラテンの環境に囲まれて生き生きと走り、けり、ドリブルしたこと、彼らのボールテクニックを、いろいろな角度からのぞきこめたこと――が幸いだった。

 74年ワールドカップで、私は“旅”を書く機会を得た。その連載(74年9月号〜75年12月25日号)で、私は西ドイツのサッカーの伝統と強い基盤を皆さんとながめ、中部ヨーロッパの“整然たる努力”を考えた。

 今度の78年ワールドカップの旅では私はアルゼンチンの広大な国土に根をおろしたラテン気質の面白さ、不思議さにひかれた。そして、何より――アルゼンチン大会のおかげで、私には南米が身近な土地になったこと、合衆国でのサッカーの興隆を実際に味わえたことがうれしい。

 82年ワールドカップは、そのラテンの1つの源泉、スペインで開催される。かつて大航海時代に未知の海へ帆船を乗り出し、コロンブスやマゼランにアメリカ発見や世界1周を遂げさせ、世界をひとつに結んだイベリア半島が、今度は世界の注目を集めることになる。その新しい舞台へ、オールドファンの心は、はや騒ぎはじめている。  (おわり)

(サッカーマガジン 79年9月10日号)

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