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華やかなフィエスタ・メヒカーナ アステカで”世界は一つ”になった

 リベラも、釜本も、イダルゴも

 スタンドは人の波でゆれていた。記者席、つまりメインからみて左側のゴールうしろの一団が立ちあがって「ワーッ」とやる。と、それが右隣のグループにうつる。つぎつぎに立ち上がり、両手をあげる(日本でいうならバンザイのスタイル)のが、うまいぐあいに30メートルくらいの幅の波となって、スタンドを1周してゆく。欧州、南米、アジア、いろいろなサッカー場でも、お目にかからなかった応援?スタイル。ウエーブというらしい。なんでもアメリカ大リーグのファンの間で流行しているとか。

 1986年5月31日、午前10時、開幕試合までに、まだ2時間、開会式にも1時間はあるのに巨大なアステカ・スタジアムには、ぞくぞくと人がつめかけ、シートは半分以上、埋まっていた。

 そのなかに、メノッティがいた。イダルゴ(前・フランス代表監督)がいた。78年のワールドカップで、アルゼンチンを優勝に導いた長身のメノッティは人に囲まれていてもすぐわかった。イタリアのかつてのスター、ジャンニ・リベラもいた。彼らはテレビの解説の仕事できているのだ。ペレもいるはずだった。彼はリベリーノやザガロたちとブラジルの放送局の解説をするのだが、この局は移動に専用のジェット機を使うのだという。

 解説者の1人に釜本邦茂氏もいた。NHKの1次リーグの期間を受け持つのだ。

 彼には、このアステカ・スタジアムは思い出の地だ。1968年のメキシコ・オリンピック大会3位決定戦で、日本代表チームは2−0で地元のメキシコ代表チームを破り、銅メダルに輝いた。メキシコのPKを防いだGK横山(現・日本協会強化部長)をはじめ、崩れそうで崩れなかったディフェンスの堅さと、少ないチャンスをものにした堂々たる勝利だが、当時24歳のストライカー釜本が杉山(現・ヤマハ監督)からのパスをうけて決めた2本のシュートは、わたしたちには、テレビを通して頭の中に焼きついている。
「あの得点は前半で、ここから見て右側のゴールでした。杉山さんのパスは、あのあたりから来たんです」

 フィールドを見下ろす彼、かつてのオリンピック得点王の青春への感慨を思った。


 フィエスタ・メヒカーナ

 10時すぎに場内放送は大会のテーマソングを流しはじめ、やがて民族衣装をつけた踊り手たちが音楽にのってダンスを披露した。

 女性の踊り手たちは、いずれも美人ぞろい。スペイン系の、インディオのまじった独特の顔だちが双眼鏡の向こうで笑っていた。

 開会式前のこうした催しを「フィエスタ・メヒカーナ(メキシコの祭り)」と紹介されていたが、踊りについで登場したのは、なんとフィレンツェの「カルチョ・ヒストリカ」。つまり、中世に、イタリアのフィレンツェ地方で盛んだった古い型のフットボール。ただし、今回はカルチョのゲームそのものはなく、その試合前の行列だけ。人数も、いささか簡略化されているが、ヨロイ武者、ラッパ手などが中世さながらの服装で進む。最後尾に人が旗を持ち、ときに空中にほうりあげては落下してくるのを、イタリア式優雅さで受けとめる。

 そう、この行列は、82年スペインでも、旗は74年西ドイツでもあった。いわば前回チャンピオン、イタリアのカルチョを表す看板というところか。
 メーンスタンドのすぐ前に、メキシコの古代舞踊が演じられ、カメラマンが群がっていた。

 ショーがすむと、こんどは入場行進。といっても選手ではなく、11人の少年が、各国のユニホームを着て歩く。アルファベット順で、まず西ドイツ(スペイン語でアレマニアで頭文字はA)から。ついでアルジェリア、アルゼンチン、ベルギー・・・・・・とつづく。1966年、1970年大会にはこの少年たちのチームの入場行進があり、74年大会からしばらく消えていた。70年大会を開催したメヒコは、やはり前のやり方を受けついだのか。ただし、こんどは各国の旗を持つのは少女(士官候補生と)なのが新趣向か。つぎつぎにチームが入場し、ソ連(URSS)とウルグアイ、そして最後はメヒコ。

 ショーとセレモニーが進んで、11時38分、イタリアとブルガリアの両チームが登場した。

 前々日に降った雨のため芝生を保護するつもりだろうか、フィールド内を使わず、外側だけの行進だったり、踊りだったりしたから、いささかフィエスタの印象は薄いが、それでもメヒコのお国ぶりを出そうとしている意図は感じられた。そんな祭りと式典を眺めながら、わたしも、とうとう、アステカへ来た、と忙しい日々をふりかえる。


 大阪―メヒコの18時間

 日本の足利時代、14世紀に建国されたアステカ族の王国、高度の文化と特異な宗教観を持ったこの国が、コルテスらのスペイン軍によって征服されたのは16世紀だが、その名を冠した11万人収容のこの大サッカー場がつくられたのは1966年5月29日、ちょうど20年前。68年のオリンピック・サッカー、70年のワールドカップの主会場となるとともに、ある意味ではメヒコのスポーツのモニュメントでもあった。この2つのエベントに残念ながら足を運ぶことのできなかったわたしには、今回がはじめての訪問だった。

 5月29日午後3時5分発のJAL52便で東京へ、ここで62便に乗りかえ、午後5時20分に飛び立った。どういうわけか、これまでのわたしの旅にはアメリカの太平洋岸は縁が薄く、こんども、往路でロサンゼルスに2時間、帰路に1泊の短時間しか持てないのだが、北太平洋を超え、サンフランシスコからロサンゼルスへ南下する途中に、しばらく西部劇の舞台を俯表できた。

 赤茶けた荒涼たる地域と、その向こうの緑の地域の対比は、わたしたちの国のスケールでは考えられないものだった。

 初めてのロサンゼルス空港は、まさに“大空港”アメリカの西の玄関

旅の日程表

▽5月29日=メヒコ着。
▽5月31日=グアダラハラへ。
▽6月1日=メヒコ・シティ。
▽6月2日=メヒコ・シティ。
▽6月3日=メヒコ・シティ。
▽6月4日=メヒコ・シティ。夕方、バスでレオンへ。
▽6月5日=レオンで試合。午後、バスでダアダラハラへ。
▽6月6日=ダアダラハラで試合、宿泊。
▽6月7日=6時、メヒコ・シティへ。
▽6月8日=バスでネサへ。
▽6月9日=メヒコ・シティ宿泊。
▽6月10日=メヒコ・シティ宿泊。
▽6月11日=メヒコ・シティ宿泊。

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