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忙しい中にも、ブラジルの潜在力、メキシコ人の親切がうれしかった

 インスタント・コーヒーさまざま

「カフェ?どれがよろしい」

 ずらりと並んだインスタント・コーヒーのビンをみながらきく。

「うん、ネスカフェがいい」

 紙カップにいれてもらい、砂糖とクリームは自分でとって入れる。

 メキシコ・シティの西部にあるチャペルテペック公園のプレス・センター(セントロ・プレンサ)は、大きなホテル(ホテル・エル・プレジデンテ・チャペルテペック)の隣に新設された5階建てのアズキ色のビルディング。

 1階に広いラウンジがあり20ばかりのテーブルと、それに(1テーブル4脚の)イスが配置されている。食事や、喫茶の設備はないが、カウンターで、コーヒーとコカコーラのサービスがある。コカコーラは、大会のオフィシャル・スポンサーのひとつ、ネッスル社もまたオフィシャル・サプライヤー。したがって、このワールドカップの競技場や、各都市のプレス・センターでは、役員やプレス関係者に提供される無料のドリンクはすべて、両社のものとなる。

 もっとも、そこは、何ごとにもチョイス(選択)のはいる欧米流の考えで、インスタント・コーヒーであっても、6、7種類の銘柄があって、必ず、「どれにします」と問われることになる。


 ボールリフティングでシャツをぬぐ

 6月2日、午後5時、わたしは紙コップのコーヒーを飲み、プレスルームでメモをつけていた。この広間に取りつけられたテレビはモンテレイでのモロッコ−ポーランドをうつしていた。

 それにときどき目をやりながら、開幕から3日間をふりかえる。

 5月31日の開会式と開幕試合、イタリアが勝っていた試合を、ブルガリアの反攻で1点を失い、引き分けてしまった。82年優勝のときの“悪玉”ジェンチーレと“輝き”パウロ・ロッシを欠いたイタリアには、メリハリが欠けていた。それでも、カブリーニやアルトペリがいいプレーをみせていた。

 その日の夜の臨時便でグアダラハラへ飛び翌6月1日、ハリスコ競技場でブラジル−スペインをみた。

 試合用のノートをあけると、ブラジル対スペインのページのはじめに、やっぱり、ブラジル、サポーターまでボールリフティングがすごい――とある。

 そう、記者席からみて、左手のコーナーのうしろのスタンドで、試合の前に黄色の(ブラジル代表と同じ)シャツをきて、ボールをついていた若者がいた。ヘディングで突きあげながら、シャツを脱ごうというのだ。最後に失敗したが、そのリズミカルで、やわらかいボールタッチは、まさに南米、ブラジルのものだった。

 試合の前に、ブラジルの選手たちは観衆に花を投げ入れ、ファンの中へボールをけり入れた。1970年、ペレやカルロス・アルベルトたちが優勝したときも、1次リーグをグアダラハラで戦った。いわば彼らの第2のホームグラウンド、その観衆への感謝のあらわれなのか。ジュニオールは、ブラジル国旗をふる一群にこたえ、わざわざ、フィールド外の広告看板をとびこえて投げ入れにいった。試合前、それも第1戦の直前での、こうしたサービス精神にはただ感心するだけだ。


 ジーコを呼ぶ声

 試合はブラジルが後半にカレッカのシュートがバーの下にあたりバウンドするのをジュニオールとソクラテスがダッシュ、長身ソクラテスがヘディングで押しこんで1−0。

 82年いらいなじみのソクラテスとジュニオールがつくり出すミッドフィールドのパスワークは、懐しいサンバのリズム。かつての“黄金のカルテット”の華やかさはなく、初めのうちは、いささか、パスも途切れがちで、サポーターからは”ジーコ、ジーコ“のかん声とサンバの手拍子の催促までうけたが、前半35分をこえるあたりからと、後半にはいってから、タテに、ヨコに、短く、長く、ボールがつながり、わたしのノートのメモ(パス経路)も、どんどんふえた。

 名前だけ知っていたカレッカはまず鋭さが目につく。きわだった速さと、ひっかかっても倒れない強さ。スペイン大会のときはセルジーニョという長身のCFであまり点を取らない人だったが、カレッカは、シューターだ。それと右のMFアレモンの運動量、エジーニョ、ジュリオ・セザールの2人のCBの堅守が、ことしのブラジルの魅力だった。

 ブラジルを熱心に見たので相手側スペインへの観察は十分ではなかったが、第一印象は82年よりいいことと、ここの伝統的なスローで“チマチマ”(細かい)した展開からスピーディーな攻撃に変わりかけていること。ただし、スペインには1980年の欧州選手権で新しい顔(速さ)をみせてもらい、また82年ワールドカップでは期待を裏切られたニガイ思いがあるから、もう少し、見ないとわからない。

 そのスペインが後半はじめに、左CKからリバウンドをミッチェルが胸で止めてシュートし、ボールはバーの下を叩いて、真下に落ちた。スペイン側はゴールへはいったと主張したが、主審は認めず、試合はそのまま続けられた。

 スタジアムからプレスセンターへもどるバスのなかでは、もっぱらこの話。スペインの記者たちは、テレビの解説をつとめている、ジャンニ・リベラ(イタリアのかつてのMF)を巻きこんで、“絶対はいっていた”、“20センチは内側だった”から、ついには、“ブラジルが負けると困るから、FIFAが主審に圧力をかけた”という諸説まで、ひとしきりやかましかった。

 ブラジルが、かつての“黄金”メンバーでなくてもブラジルらしく、また、新しい(わたしにとって)顔ぶれが、攻めも守りもいいので、一安心。なんといっても、この大国からのチームに魅力がなければ、ワールドカップの楽しみも大いに減少してしまう。むしろ、今回はスペイン大会のときよりも、バランスはいいのではないか、彼らが、ほんとにひとつのチームになれば――と、その潜在力にうれしくなった。


 深夜の滑走路

 旅というものは、いいものを見て喜んだあとには、たいてい落としアナがある。この夜9時40分の臨時便に乗ろうと空港へ8時すぎについたら、 なんと滑走路に不時着機がいて動かず、そのためにしばらくは空港閉鎖。午前1時すぎまで待たされることになった。

 結局、メキシコ・シティに帰ったのは午前3時だったか。

 それも、いざ搭乗というとき、ボクとカメラマンのI氏が、搭乗機まで運んでくれるバスに乗り遅れたため、親切な係員と3人で、滑走路を走って飛行機にたどりつくという“冒険”のおまけまでついた。

 事故のあとの対応のスピードや、インフォメーションの不徹底などはどこでも同じだろうが、そういう組織のまずさは別にして、その間にみせてくれる1人ひとりの人間の心のやさしさというものが、この国にはあった。搭乗口から発車してしまったバスを呼びもどそうと、けんめいにコールしてくれた係、そして歩きましょうと、暗い滑走路をいっしょに走り、途中で荷物運転車を止めて、のせてくれた親切。

 カメラや望遠鏡など重い荷物を持って走ったため、足を痛めはしたが、ともかく彼らのおかげで、メキシコ・シティに帰りつき、2日のアルゼンチン−韓国をみることができた。

 そして、この日のアルゼンチンはマラドーナがすばらしく、韓国もまた前半はいささか初舞台の過緊張のため冴えなかったが、後半、彼らのエネルギッシュな攻めを出し、1点を回復した。キックオフ前の国家吹奏で、涙をうかべて歌った朴昌善主将のミドルシュートがきまったとき、韓国サッカーと旧制中学(神戸一中)いらいの長いつきあいを持つ、わたしも、思わず記者席で声をあげたのだった。

 こんどの大会は、日程がつまって忙しい。しかも、はじめに、取材予定を立てにくかったから、余計にいろんな手間がかかる。しかし、試合は面白く、メキシコの人たちは親切だ。

 大会は、いよいよ楽しくなるぞ――わたしはうれしい予感に、心をうきたたせながら、コーヒーの2杯目を求めてカウンターへ向かった。

旅の日程

▽5月31日=メキシコ・シティ。飛行機でグアダラハラへ。
▽6月1日=グアダラハラ。深夜、飛行機でメキシコ・シティ。
▽6月2日=メキシコ・シティ。

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