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歴史の町ケレタロと最新の競技場での「戦う」西ドイツに心浮き立つ

 シュマッヒャーがいる。ブリーゲルも。彼ら2人は口を動かしていた。もちろん声は聞こえないが、双眼鏡で見る口もとは、歌っているのだろう――。

 1986年6月4日、ケレタロ市のコレヒドラ競技場、試合開始前のセレモニー、まずウルグアイ国歌、ついで西ドイツ国歌が吹奏されていた。

 整列し、国歌を聞き、あるいは歌う選手たちの表情を見るのは、わたしの楽しみのひとつ。顔を昂然とあげるもの、下を向くもの、1人ひとりの緊張感を、読みとりながら、スタンドのサポーターの合唱を聞くと、ワールドカップに、きているんだナ、と、実感が沸いてくる。

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 メキシコ・シティから211キロ、ケレタロ市は高度1865メートル、人口25万、メキシコ独立の重要な舞台となったところ。1808年ヌエバ・エスパーニャと呼ばれスペインの植民地であった当時、ケレタロのクラブに集まって独立の計画を練っていたものが政府側に捕らえられると、近郊の小村ドロレスの司祭ミゲル・イダルゴが大衆を扇動し、スペイン支配からの独立を叫び、武装した原住民や混血たちが集まってケレタロを攻略した。このときの反乱は失敗し、1811年3月に、イダルゴは捕らえられ処刑されたが、これがスペイン支配を脱する闘争のはじまりとなる。

 新設のエスタジオ(競技場)・ラ・コレヒドラは市の南部の丘の上に、1985年2月5日に竣工した。着工が1983年3月17日だから工期わずかに20ヶ月。41673のシートをもち、24の出入り口を配して全観客が10分間で出られる計算。6700台のパーキング・エリアが広がる。

 “コレヒドラ”を辞書でみると、コレヒドールと同じでスペイン領時代に王室から任命された地方行政官、村長とか代官ということになるらしい。もとの意味は「悪を正す」あるいは「悪を正す者」とか。


 静かなホテルで
 
 この歴史の町と最新のスタジアムへ、わたしたちはメキシコ・シティからチャーター・バスでやってきた。市内にはいる少し前に“ホテル・ガリンド・マンション”で休む。

 アステカの征服者コルテスが彼の愛人マリンチャのため設けた農園だったところだといわれ、くだって19世紀にナポレオン4世によってメキシコ皇帝に選ばれたマクシミリアンが、皇后シャルロッテのための別荘をたて、それが、のちに修道院となり、さらに20年前にホテルになったという。

 西ドイツ代表チームの宿舎になっていて、早朝、まだ選手たちの姿は見えたかったが、ドイツの記者たちがプールサイドのイスで、くつろいでいた。

 赤い壁の2階建て、芝生の中庭とプール、周囲の緑。整った施設と静かで、落ち着いた雰囲気は、選手たちの気分を和らげるに違いない。そういえば、80年の欧州選手権のときのローマ郊外のホリデイ・イン、84年のパリ郊外サンジェルマン・アン・レイのカンドホールも、西ドイツの宿舎は田園調、ロッジふうなのを思い出した。

 そのホテル内のプレス・ルームでDFB(ドイツ協会)発行のチームのパンフレットをもらう。A5版152ページに選手団の紹介はもちろん、E組の各チームのコメント、試合日程などが、ドイツ語、英語、スペイン語で書かれている。

 ベッケンバウアー監督、ケペル・コーチ、フォクツ・コーチ以下25人のプレーヤー、ノイバーガー会長を団長とする選手団役員8人。また10人のバックアップ・グループが記載されている。バックアップの役柄はキャップが1人、広報1人、ドクター2人。マッサージが2人、コックが1人、用具係が2人(うち1人は兼ドライバー)、そしてアディダス社から1人となっている。

 いつの大会でもドイツ代表チームの準備のゆきとどいているのには感心するが、こんどは84年欧州選手権大会での不成績のあと、デアバル監督が、任期途中で辞任し、ベッケンバウアーが就任したといういきさつがあるだけに、協会の意気込みも強いのではないか、そんな空気が、なんとなく宿舎の周辺や印刷物から伝わってくるのだった。


 守備に強いハズが・・・・・・
 
 試合がはじまって1分少々だったか、ウルグアイのファウルが続いたあと、西ドイツのマテウスのパスミスをウルグアイのアルサメンディが奪って突進、シュマッヒャーをかわして先制ゴールをきめた。

 ルムメニゲやリトバルスキ、さらにはフェラーなどの得点能力のあるプレーヤーが、シーズン中の長期にわたって負傷のため戦列を離れ、この大会には参加はしてもベストコンディションには遠いといった状態。守備力には自信があるとの話だった西ドイツ。それが、いきなり1点を奪われて、苦しいハンデを背負うことになった。

 8分にマテウスのロングシュートがとんだのを皮切りに、西ドイツの圧迫が続く。その間を抜って、ウルグアイのカウンター。17分にアロフスの左FKを右サイドで2人がノーマークとなってフェラーがとびこんだがタイミングが悪い。すぐそのあとK・H・フェルスターのシュートが相手に当たる。


 新顔ベルトルド

 それから25分までに、4度のシュートチャンスがあった。しかし、ウルグアイは中央の守りが固く、また相手シュートのコースをみごとに読んで防ぐ。もともと、ウルグアイは、守りが強く、その固いディフェンスを基盤にしたカウンターが得意なところ。フランチェスコリや、日本へ来たことのあるダシルバ、あるいはアルサメンディらの攻めは鋭い。

 攻めつづける西ドイツの中で、14番をつけたトーマス・ベルトルドの動きが目立つ。アイントラハト・フランクフルト所属の、21歳の若者は、右のDFの位置から、深く攻め込み、強いシュートをバンバン打つ。185センチと上背もあり、いい若手が出てきたなとちょっとうれしくなる。

 そしてまた、西ドイツの全員の動きの早さ、ひとつの疾走のあと、すぐまたくりかえす疾走のさいの強さに、やっぱり強いなと感心する。

 前半の終了間ぎわに、マガトからのパスをうけたフェラーが、タテにもって出て、大きく切り替えし、左でシュートしたが、ドカンと上げてしまった。こういうところが試合から離れていた影響なのか。

 後半にはいって、リトバルスキがブレーメに代わる。彼のドリブルとちょっとした間(ま)のとり方がプラスになるかどうか。

 攻め込むドイツをはねかえし、カウンターに出るウルグアイ、これを防いで、再びシュートへもってゆく西ドイツと激しい動きがつづくうちに、22分に左サイドのアロフスから中央のリトバルスキへパスが出てエリアの外からのリトバルスキのシュートはバーに当たる。


 ルムメニゲへの期待

 これでもはいらないのかと西ドイツは23分からルムメニゲを投入(マテウスに代える)。ブレーメもマテウスも、動きの量が大きく強いシュートのできる選手だが、ルムメニゲの起用はやはり、彼のふり幅の小さなスイングが必要とみたのかナ、とベッケンバウアー監督の胸のうちを考えてみる。カールハインツ・ルムメニゲは78年のアルゼンチン・ワールドカップの代表の時にみた。

 いや、その3年前、1975年1月にバイエルン・ミュンヘンが来日したときの若々しいプレーもほんのわずか覚えている。1955年3月6日生まれの彼は、そのとき19歳10ヵ月。ベッケンバウアーやゲルト・ミュラーら74年ワールドカップ・チャンピオンのスターにまじって、国立競技場で試合し、ボレーシュートで1ゴールをあげている。

 彼の右足のボレーは、右足を突き出すようにし、体の前で取ることが多い。その次に見たのは78年のワールドカップ。不振の西ドイツの中で、彼の突破力は、有効な武器になっていた。2年後、ルムメニゲは最盛期にはいる。ブンデスリーガの得点王になり、代表チームの攻撃を引っぱって欧州チャンピオンとなった。80年〜81年にかけてのルムメニゲのドリブルは、まさに相手のDFを切り裂く鋭いナイフのようだった。

 82年のワールドカップでは、1次リーグの対アルジェリアの敗戦のあと、チリに勝った試合の殊勲者となり、準決勝のフランス戦では3−1の劣勢からの追い上げに、見事なパスを展開した。故障のため大きな疾走がなく、わたしには不満だったが、それでも、彼の小さな振りでけるパスとシュートの正確さ、タイミングの早さが、西ドイツ代表チームの中で必要なのを、このとき理解した。

 33分にルムメニゲ→アロフス、35分にルムメニゲ→フェラーのチャンスが生まれ、36分にルムメニゲのクロスをベルトルドがヘディングした。得点にはならなかったが、ウルグアイにはプレッシャーが続いた。

 そして39分からのゴール前でのせり合いの連続、3度目の球をやっとクリアしたウルグアイだったが、その球もフェルスターが果敢なダッシュで奪い、ウルグアイDFの背後へパス。アロフスがきめて同点とした。

 試合が終わると、この日のわたしはつぎの予定が待っている。それはチャーター・バスでメキシコ・シティに帰る何人かと別れて、ケレタロから乗り合いバスでレオンへ移動しなくてはならない。この日のうちにレオンへ行き、次の日のフランス−ソ連戦を取材することにしていた。

 バス・センターへ、行かないといかんな、と心がせいていながら、わたしは、なんとなく、浮き浮きしていた。ルムメニゲは最盛期から見ればものすごい落ち方だし、リトバルスキも、フェラーもやはり調子はよくない。しかし、ことしのドイツは「戦う」という姿勢がはっきりと出ている。

 80年の欧州選手権いらい、大きなタイトルマッチを見つづけてきた西ドイツ代表だが、今回は決してスマートとはいえないが、選手の平均技術は高く、強いサッカーができる、いわば、ドイツ本来のサッカーができるのではないか。第2のベッケンバウアーやオベラーツ、第2の“皇帝”や“芸術家”を期待する人も、“皇帝”や“芸術家”がいなくても“力いっぱい”に戦う集団に対しては拍手を送るのではないか。

 足ばやに歩きながら、歴史の町ケレタロでのベッケンバウアー監督の西ドイツの第1戦を見たことに満足するのだった。

旅の日程

▽6月4日 ケレタロ。バスでレオンへ。

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