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ムダではなかったメキシコ・シティからグアダラハラへの”バス旅行”

 「フットボールやスポーツの試合を見て回るのがお仕事・・・・・・、楽しいでしょうネ」
 「まあ、好きなことですからネ」

 1986年6月7日、早朝6時5分にグアダラハラをとび立ったメヒカーナ航空147便はメキシコ・シティに向かっていた。

 通路側のわたしの席から、右手側の2人の若い夫妻は、サンフランシスコから、メキシコ・シティの里帰りだといった。きれいな英語を話すご主人は、エンジニアで、仕事で東京へもいった。日本に友人もいる。サッカーはもちろん好きで、1968年のメキシコ・オリンピックで日本が銅メダルを獲得したことも覚えているほど。こんどの大会の印象をわたしにたずね、自分も入場券をなんとか手に入れたい、などといっていた。

 6月4日にメキシコ市からバスでケレタロまで走り、西ドイツ−ウルグアイ戦を見たあと夜のバスで、ケレタロからレオンへ。4日夜はレオンで泊り、5日の正午、レオンでのフランス−ソ連戦を取材、終わってから、またバスで、こんどはグアダラハラへ。5日夜はグアダラハラで1泊、6日にブラジル−アルジェリア戦を観戦して、もう1泊しての帰り、この日は12時からアステカ競技場で地元メキシコとパラグアイの試合が待っていた。

 隣席との会話が途切れたところで、メモの整理にかかる。


 インディオのお祈り

 ケレタロで西ドイツが、戦う力と強い意欲を持っていることに感銘をうけたあと、バス・センターまでゆき、1240ペソ(約310円)の切符を買ってバスに乗った。乗り込む前に、他の乗客が何やら人と争っている。荷物を持ち込もうとする乗客に、そのカバンは車の荷台(バスの胴体)に入れるのだからと、誰かが取り上げようとした。どうもその男はバス会社の係員でなくて、もし、カバンを受け取れば、どこかへズラかってしまう類(たぐい)だったらしい(相棒もいたようだ)。カバンの紳士は別に被害はなかったようだが、なるほど、こんな手口もあるのかと思った。そういえば、ボクは、84年にマルセイユで試合のあと、競技場の前からバスに乗るとき、あやうく、ズボンのポケットから財布を抜かれるところだった(相手はたしか2人で組んでいた)。

 今回のバス旅行はメキシコにくわしい写真家のMさんや、スポーツカメラマンたちといっしょだから、多少は気丈夫だが(うち1人はグアダラハラのバス・センターで、カバンを刃物で切られた=中身の被害はなかったが)なにしろ、油断はできない。

 そんな一幕があって、席にすわっていると出発直前にチュウインガム売りの少年がはいってくる。そのあとに、こんどはインディオの老女が乗ってきて、なにやら、乗客に向かってブツブツ唱える。道中安全のお祈りをしてやろうということらしい。みると何人かの乗客は小銭をわたしている。

 バスの事故がときどきあるという話も聞いていたから、わたしも20ペソわたすと、老女は十字を切ってくれた。何をいっているのか、スペイン語の素養がないから、わからない。「シニヨーロ・・・・・・」は聞こえたから、まあ、わたしのお布施ぶんは祈ってくれたのだろうと納得したのだが、このバスの旅行のシリーズでは、物も体も無事だったのは、やはり、老女のお祈りのおかげかもしれない。

 エスタディオ・デ・レオン。つまりレオン競技場でのフランス−ソ連戦は、90分間があっという間にすぎてしまった。

 ディナモ・キエフがこの日の11人のうち7人を占めているソ連の攻撃は、スピーディーで、技術的で、相手ボールのさいにすばやく囲み、奪いにゆく、攻と守の切りかえが、まことにみごとだった。

 ソ連のサッカーは、東京オリンピックのための強化で、日ソのスポーツ交流がひんぱんに行われたころから身近になり、1960年秋に来日したロコモチフ(モスクワ)や1962年12月のディナモ・モスクワ(チスレンコがいた)、1965年、ワレシチン・イワノワ主将がいたトルペド・モスクワなどが印象に残っている。また、82年ワールドカップでは1次リーグでブラジルと2−1の接戦を演じたソ連代表チームをナマで見ているが、これまでのチームとくらべても、今回のソ連代表は、よりスピーディーで、より技巧的という感じだった。

 スコアは1−1。ソ連が53分に先制し、フランスが61分に同点にしたが、ともに特色の出た、ビューティフル・ゴールだった。

 ソ連のゴールは、プラティニのミスからボールを奪い、左から攻める第一波から始まる。いったんフランスがクリアしたのをCBのベスソノフが取って右のDFラリオノフへ。ラリオノフは右外へドリブルして、内側のヤレムチュクにわたす。ヤレムチュクはこれを浮かして前方のザバロフへわたそうとする。フランスのバチストンがヘディングではね返す。それがラリオノフにわたり、ベラノフへつなぐと、ベラノフは、左後方のラッツへパス。ラッツはペナルティーエリアの外側から左足で右すみへ、ズバーッと一発。勢いといいコースといい、まったく申し分のないスーパーシュートだった。


 動きの妙、パスの妙

 リードされたフランスをスタンドからアレー(ゆけ)の大合唱があと押しする。ジレスが目立つようになってフランスのパスが冴えてくる。61分の同点ゴールは、そのジレスのタテパスをストピラが追うことからはじまった。右タッチラインぎわでキープしたストピラは、後方のプラティニにパス、プラティニはジレスにわたす。ジレスは、自分の内側を後方からかけぬけて突進するフェルナンデスの足もとへ、ふわりとボールをおとす。ソ連のDFは、左に開いたパパンと、前方からもどろうとしたストピラのマークにそれぞれ1人、そして、右サイドから中央へ走りこんできたプラティニへの警戒はできたが、長い疾走で上がってきたフェルナンデスをマークできるものはいなかった。フェルナンデスの落ちついたシュートがきまった。

 押し込んで、拾っての波状攻撃、攻めの厚さがソ連なら、フランスは詰め将棋の――、それがともに個人技術と戦術とが結合し、スピーディーなのが、まさにサッカーだった。

 グアダラハラでは、バス旅行の疲れを落とすために値段の高いのを承知でホリディ・インに泊まる。メキシコ・シティのホテルはシャワーだけだったので、バスタブでゆったり湯にはいれるのがうれしい。

 翌日の6月6日、プレス・センターのあるホテル・フィエスタ・アメリカーナへ出かけて、ブラジル−アルジェリア戦の入場券を受け取り、ホテルのレストランで朝食。バイキング式で、フルーツがふんだんにある。

 こんどのワールドカップでは、記者席の入場券は、それぞれの開催都市で受け取ることになっているため、いつも、早目に現地のプレス・センターに到着しなければならない。ただし、グアダラハラはプレス・サービスもよく、報道資料などの用意もいいので、大いに助かる。

 この日の試合のスコア、ブラジル1−0アルジェリアは、アフリカ代表が、もはやワールドカップでは必ずしも“お客さん”ではなくなったこと、アルジェリアが4年前に西ドイツを破ったのも、決して偶然でないことをみせたといえる。ブラジルはジーコの登場はなく、ファルカンもまた調子はよくないようだったが、ソクラテスとジュニオールがミッドフィールドのリーダーとして働き、ブラジルらしい、ボールの動きを見せていた。ジーコの故障回復ははっきりしないが、ともかくチーム内で、それぞれの役割をプレーヤーが飲みこんできたようにみえた。

 メキシコ・シティから、ブラジルの試合のために足を伸ばしてきたのもどうやらムダではなかった。ことしのブラジルは攻守のバランスがとれいいチームになる可能性がある。わたしはメモに、そう書き加えた。

 書きながら、もう1つ気がついた。

 それは、6日夜のホテルのさわがしさ、ブラジルのサポーターがホリディ・インに多く、例によって深夜までディスコでジャンジャンやったらしい。おかげでディスコに近い部屋にいたわたしは、ほとんど眠れなかった。

 *   *   *

 「もうすぐですよ。旋回するときにスポーツ・パレスが見えるでしょう」隣席から声がかかった。メキシコ・シティの巨大な広がりが眼下にあった。ケレタロ、レオン、グアダラハラの忙しいが、楽しいローカルの小さな旅は、終わろうとしていた。

旅の日程

▽6月4日 レオン泊。
▽6月5日 レオン。バスでグアダラハラへ。グアダラハラ泊。
▽6月6日 グアダラハラ泊。
▽6月7日 飛行機でメキシコ・シティへ。

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