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完成の域に達したマラドーナを思いながら期待にふくらむ第2ラウンド

 ラジオと“罰金”

 見おぼえのある風景が窓外に広がっていた。単調な道路を、バスは猛進していた。

 1986年6月15日、ワールドカップ・メキシコ大会は、この日から第2ラウンドにはいり、わたしたちは、貸し切りバスで、ソ連−ベルギー(午後4時キックオフ)を見るためレオンに向かっていた。

 朝8時15分に、メキシコ・シティの、ホテル・モンテ・レアルを出発したバスは、正午にケレタロをすぎ、10人ばかりのカメラマンや記者たちは、ゆったり座席を占領して、眠るもの、メモをつけるもの、ラジオを出して、メキシコ・シティでのメキシコ−ブルガリア戦(12時キックオフ)を聞くもの・・・・・・、思い思いにくつろいでいた。
「どうやら間に合うでしょう」と横の席のO氏がいう。
「うーん、20分ぐらいだったかナ、止められたのは・・・・・・」


 メキシコ・シティの町並みから郊外へ出ようとしたとき、警官に止められた。口ヒゲをつけた警官の問いに答えて、ドライバーが何かさがしているが、出てこない。言葉のやりとりは、聞こえないし、また聞こえてもわからないのだが、なんとなくドライバー側が旗色が悪い。この調子では、ゲームに間に合うのかなと、心配したりした。メキシコの事情に明るいカメラマンのMさんが事情を聞きにいってくれる。郊外へ出るバスに必要な書類を持参していなかったらしい。

 こういう場合、この地でのてっとり早い方法は、警官に見のがしてもらうこと。M氏がころあいを見はからって、小さなラジオに、相応の“罰金”をそえると、いってもよろしいということになった。


 マラドーナとアルゼンチン

 5月31日にはじまった大会は6月13日までの14日間で1次リーグ36試合を終わり、24チームのなかから、8チームが落ちて16チームが残った。アジアからの韓国、イラクは、ずいぶん健闘したが、結局は脱落。アフリカはアルジェリアが落ちて、モロッコだけ。北中米からは開催国メキシコ。ヨーロッパ勢は10チーム、南米は4チームが第2ラウンドに進んだ。

 その1次リーグで、わたしは、6月8日までの9日間にナマで9試合を観戦し、メキシコ・シティとグアダラハラ、レオン、ケレタロなども回った。9日以後は、しばらくメキシコ・シティにいて、原稿を書いたり、プレス・センターでのテレビ観戦、あるいはビデオ室での復習に時間をさいた。

 もちろん、ナマの試合も見た。なかで、6月10日、エスタディオ・オリンピコでのアルゼンチン対ブルガリア(2−0)は、マラドーナが、いよいよ大スターへの道を進んでいることを示した。


 ジャンプと浮き球

 6月2日の対韓国戦で、わたしはことしのアルゼンチンとマラドーナが、82年大会より魅力のあることを知った。6月5日の対イタリア戦は(わたしはレオンのソ連−フランスを取材)ナマで見ておらず、例の浮きダマのボレーシュートを録画で見ただけだった。バルダーノから出たパスを、バウンドの高いところで、左足で軽くふれるようにしてけったシュートは、そのジャンプが、踏み切って、跳びあがるというより、まるで(歌舞伎の舞台などで)上から彼の体を何かで引きあげたかのように軽やかなのに驚いた。このシーンがあまりにも印象的で、ビデオでみたイタリア戦のゲーム全体は、ほとんど頭に残っていなかったから、ナマの対ブルガリアは、余計に、わたしに大きなインパクトとなった。

 この試合でのマラドーナは、まず、韓国のときのように、倒れたときにヒザを気づかわなかったこと。ボールを浮かし、自分も小さくジャンプすることで、再三、相手のタックルをかわしたこと。相手攻撃のさいには、空白の危険地域をカバーするなど、ディフェンスの面でもインテリジェンスを発揮したこと――などで、彼の成長ぶりを、いよいよ強く感じたのだった。

 ブラウン、ルジェリの2人のCBと、その前にいるハーフの底というのか、前方のスイーパーというのかパチスタの役割が、うまく、あてはまって、このチームお中央の守りが安定していることも、3試合で失点2、それも1点はPK(対イタリア、不運なハンドによる)、1点はロングシュート・・・・・・という数字にあらわれている。

 この中央の守りを基盤にして、攻めはマラドーナを中心にバルダーノ、ブルチャガ、ジュスティ、それにクシューフォ、ガレの両サイドDFらが、パスワークを構成し、スピーディーで労をいとわぬ彼らの突進がマラドーナのパスを生かしていた。1点目は開始後3分、右サイドを走ったクシューフォが、いったんはブルガリアDFにボールを奪われたのを、とりかえし、ハイクロスを送ってバルダーノが決めた。

 2点目は76分にマラドーナが左サイドで相手のジュリアスコフをはずし40メートル、ドリブルして、ゴール正面(右より)へクロスを出し、ブルチャガがヘディングでピタリと合わせた。


 多芸、多才

 得点にはならなかったが、前半の終わり頃、右から左へ斜行して3人を抜いて左足でシュート(右へはずれる)したのと、タイムアップ近くにバルダーノのライナーのクロスに正面でマラドーナがどびこんだのも、彼の(これまで、わたしが知っている)鋭さに、さらに力が加わったプレーにみえた。

 そしてまた、左タッチラインぎわで、体を外に向けたまま、後方からのパス(グラウンダー)を左足で浮かし、ジャンプして、左足のヒールキックで、仲間にパスしたプレーは、瞬間のヒラメキの卓抜さと、それをやってのける技術の確かさにあ然としたものだ。

 19歳の彼を、1979年のFIFA創立75周年の記念試合(アルゼンチン対オランダ)のテレビで見て感銘をうけ、同年夏の第2回ワールドユース大会でナマを見て驚嘆した。81年1月のコパ・デ・オロにウルグアイまで出かけたのも、彼の成長を見たかったからだ。

 しかし、82年スペイン・ワールドカップでは、78年ワールドカップ優勝メンバーと肩を並べながら、チームも彼も調子を出せないまま、世界を失望させた。そして、今回はヒザの故障の回復状態を危ぶまれ、またマラドーナ1人に負担がかかる点を指摘されながら、チームと彼は、1次リーグを通して、みごとなまでに“優勝候補”になっていた。

 もっとも、その中で、わたしはクラウディオ・ボルギの不調が寂しかった。85年のトヨタカップでみせた早さや切れ味はカゲをひそめていた。どこか故障があり、それが彼のスピードを鈍らせているとみえた。

 まず、その早さで相手を威かくして優位に立つ彼に、スピードがなければ、それを補う(あるいは、かくす)には、まだ若いのだろう。


 石井義信監督と

 各都市を、とび歩くのを押さえたお陰で、この期間に何人かに会えた。日本代表チームの石井義信氏もその1人。久しぶりに何時間か、サッカーの話をすることができたし、アディダス社のワールドカップ・クラブと称する彼らのサービス・ルームをたずね、広報のクラウス・ミュラー部長や、ハイジ・グラフ女史とも再会した。もと日立の監督・ロクさんこと高橋英辰さんに、日立製作所メキシコ事務所・戸田真所長を紹介していただき、日を改めてメキシコ事情を聞かせてもらうことにもなった。

 石井監督は、同氏が東洋工業のMFをつとめ、八重樫(古河)、宮本輝紀(新日鉄)といった相手の中盤のキープレーヤーのマークに粘りをみせていたころからのつき合い。勉強家の石井氏のことだから、見るべきところを見つめ、代表強化に役立たせるだろう――。

 彼は強化練習の日程もあり、まず、1次リーグだけをみて(当面の相手である韓国やイラクの試合ぶりをとくに注目していた)帰国するが、決勝トーナメントにはいると、日本から、どっと観戦ツアーがふえてくるハズだ。

 日本リーグや学校チームの監督さんたちもくるとか――。

 わたしは、86年ワールドカップの1次リーグが前回よりもよかったことを思い出しながら、日本の観戦者のためにも第2ラウンドがさらにスリリングでしかも、サッカーらしいものであってほしいと願うのだった。

 レオンには、エキサイティングで予想外の結果が待っていようとは、このときまったく予想もしていないで――。

旅の日程

▽6月15日 メキシコ・シティからバスでレオンへ。

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