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小国の手づくりの”機略”が超大国を破る波乱の決勝ラウンドの幕開け

 6年前のベルギー

 エスタディオ・レオンは騒然としていた。1986年6月15日、午前5時50分、第2ラウンド1回戦のソ連対ベルギーは午後4時にはじまり90分を終わって2−2、延長戦にはいろうとしていた。例によって夕方からの雨もようとなり、暗い空に、照明が点灯されていた。
「やはりベルギーだ」――ゴールうしろで国旗をふるベルギー人サポーターを見ながら、あらためてグイ・ツイス監督と、彼の仲間の“機略”を思う。

 日本の10パーセントにも満たない国土に、1000万人が住む小国ベルギーは、サッカーでは、協会創立が1895年と古く、FIFA(国際サッカー連盟)の設立(1940年)当初からの加盟7カ国のひとつという名誉を持ち、1920年、自国で開催した第5回アントワープ・オリンピックでの金メダル、サッカーの五輪チャンピオンだった。

 こんな歴史を持つベルギーの代表チームにわたしが出会ったのは1980年のヨーロッパ選手権。欧州の予選を勝ち抜いた7カ国とホストのイタリアと合わせて8チームが集結した大会の1次リーグで、ベルギーはまず、優勝候補のイングランドと引き分け(1−1)、ついでスペインを2−1で破り、さらにイタリアと引き分け(0−0)、3戦1勝2引き分け(勝点4、得点3、失点2)でこのグループの首位となって決勝に進出、西ドイツに1−2で惜敗した。バンムールというベテランのミッドフィルダーを軸に、厚く守ってカウンターで相手ゴールを脅かす戦法は、どの相手にとっても“勝つことのむずかしい”チームだった。この欧州選手権イタリア大会では、ベルギーのあまりにも守備的な試合ぶりにカテナチオの本家イタリアのベアルツォト監督が非難するという一幕もあった。

 1982年スペインのワールドカップの開幕試合で、78年のチャンピオン・アルゼンチンに対して巧妙なオフサイド・トラップを併用しつつ、固い守りで、相手を封じ、ベルコーテルンの1発のロブのパスがとおって(バンデンベーグのシュート)で得点し、1−0の大金星をあげている。

 こんどの大会でベルギーは1次リーグで、メキシコに敗れ(1−2)、イラクに勝ち(2−1)、パラグアイに引き分け(2−2)で、1勝1分け1敗。得点5、失点5で、辛うじて第2ラウンドに残った。ソ連の2勝1分け、得点9、失点1にくらべると、いささか勢いに乏しく、試合前の予想ではソ連優位とみて当然だった。


 ソ連のビューティフル・ゴール

 午後4時キックオフの試合は、まずソ連の攻撃をベルギーが防ぐという形ではじまった。DFラインを5人で構成するベルギーに対してソ連は早いドリブルと長短のパスでくずしにかかる。ヤコベンコやベラノフのシュートがあり、ベテランのGKパフはいそがしくなる。6年前の欧州選手権第2位のときに活躍した彼は、そのあとすぐバイエルン・ミュンヘンに移籍して、ブンデスリーガでの経験をつみ、シュマッヒャーと並んで高い評価をうけている。

 そのパフも、さすがに取れないシュートが出た。短いパスをうけたベラノフが右へ流れながらペナルティ−エリア外、中央やや右よりから、半転するようにシュート、左スミへ、きっちり叩き込んだ。このシュートの前に、ベルギーのDFラインは、どういうわけか、マークがずれ、お互いにマークを確認しようとしていたときにザバロフがタテにドリブルしてベラノフにわたし、こんどはベラノフが右横にドリブルしたのだった。そのとき、彼への接近が遅れたため、ベラノフは、自分の、もっともいいポイントでシュートした。


 速いことと、コントロールと

 このベラノフの右横へのドリブルシュートで驚いたのは、そのドリブルの速さ。普通、横へ流れてシュートするときは、もう少しスピードを殺すのだが、彼は、相手をタテに突破するのと同じような早さだった。

 リードしたあともソ連の攻撃はつづく。しかし、パフがうまいので、よほどのシュートでなければ得点にならない。それにベルギーの多数防御がジャマをする。すると、シュートのタイミングが狂って、ボールはポストをはずれる。みているとソ連の選手のシュートのタイミングは、ひとつだけ。自分の体の勢いにのせてのキック、それも、ドリブルにしても、ボールを受けるにしても、スピーディーだから、ちょっと、ボールを置く位置がくるったりすると修正しにくい。ディナモ・キエフの特色のスピードが、長所であるとともに、つまずきはじめると弱点になりそうな気がしてきた。


 パフの長キック

 さんざん、攻めて点のはいらぬソ連に対して、ベルギーは、GKパフがボールをとると、ゆっくり、2度、ボールをバウンドさせ、パントキックでボカーンと相手25メートル線までキックする。ゴールからボールを遠ざけるというだけでなく、一気に前線へボールを送ること、それによって中盤のスペースを広げる狙いがあるに違いない。

 ソ連選手の細かいステップのドリブルと違い、中軸のヤン・クーレマンスは、長身でストライドが大きく、ゆったりとしたスペースが必要だ。そしてまた中盤の人数が少ないし、また大きなクロスパスを出すためにも(フリーな時間が必要だから)スペースがほしい。

 広いスペースを使うベルギーの攻めは後半11分に左からのクロスをシーフォがきめて同点ゴールを奪う。パスを出したのはベルコーテルン。82年の対アルゼンチン戦にクロスパスを出した男。左ききで、大きくはないが頑健で、左の振りが早く、またクロスのコースには自信を持っている。彼がけったボールは、ソ連のDFをこえ、ノーマークのシーフォにわたったのだった。

 その14分後にまたソ連がリード、クーレマンスが取ったボールを奪い、ザバロフのドリブルからパスをうけてベラノフがきめる。

 このゴールで勝負があったとみえたのに、ベルギーの頑張りがつづいて、後半34分にランキンの高いロブの落下点に、ノーマークでいたクーレマンスがシュートをきめて、また同点とした。DFラインの背後へ出たクーレマンスがオフサイドだったのかどうか?

 3点目を狙う両チームの動きは激しく、疲れもかさなって、ミスも出る。そんな乱戦になると野武士のようなベルギーに勢いがつく。


 ベルギーのセットプレー

 3万8000収容のスタジアムにはいった3万余の観衆にとって、予想外の、しかも迫力満点の展開となった。その延長前半11分、はじめてベルギーがリードする。クーレマンスのパスから右へ出たクラエセンが中へかえす。これをソ連DFがけり出して右CK。キッカーはベルコーテルン。左利きの彼だから、ゴール前へカーブキックがくるのかと思ったら、後方のゲレツへ。ゲレツが、クロスをファーポスト、ゴールエリア外へ送り、デモルがヘディングをきめてしまった。

 延長前半が終わったところで雷が鳴り、雨が降る。この雨ですべりやすくなった“重馬場”を勢いづけた赤いユニホームがかけめぐる。そして、後半4分に右CKからベルギーに4点目が生まれた。ベルコーテルンのライナーが左外へ抜け、クーレマンスが中へいれる。せり合ってヘディングの応酬からクラエセンの位置にボールが落ちてくる。右ききの彼には、けりにくいポイントにきたボールを、落ちついて、体をずらせ、右足できちんとシュートした。

 セットプレーからの展開のうまさ、1人ひとりの戦術眼、そして自信が、この試合だけについていえば、いや延長の30分間だけなら、ベルギーが、ソ連をしのいだ。

 PKで3−4とし、タイムアップのあと、握手しユニホームを交換し、立ち去って行くソ連の選手たちが気の毒だった。日本の59.3倍の広大な国土、2億6000万人の人口、サッカー人口も450万人の超大国。その代表に小国のチームが勝つ面白さ。サッカー超大国ゆえに、チーム編成の方針が一定せず、大会直前に、ディナモ・キエフを主力とすることになったのに対し、小国のグイ・ツイス監督は6年前からのパフ、ゲレツ、ランキン、クーレマンスらの軸をそのままに、ワールドカップ、欧州選手権と、タイトルマッチごとに若手を加わえ、チームをつくりあげてきた。そんな手づくりのメンバーが強敵相手に全力をだし、要所要所で自分の特徴を生かした。

***

 1次リーグで評判のよかったソ連が、まず伏兵ベルギーに屈して、第2ラウンド1回戦は、まず初日からの波乱となった。前回のスペイン大会で評判の悪い2次リーグを廃して、16チームのKOシステムにしたスリルが、いきなり表れた感じだ。16日、17日、18日の、これからつづく毎日の2試合は、どんな試合になるだろうか――夜道を疾走する帰りのバスのなかで、翌日のプエプラ(アルゼンチン−ウルグアイ)、17日のモンテレイ(西ドイツ−モロッコ)、18日のアステカ(イングランド−パラグアイ)とつづく、旅のスケジュールと、試合の楽しみを思うのだった。
 
旅の日程

▽6月15日 レオン。

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