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アステカ最後の王の名がつく競技場で宿敵を撃破した充実のマラドーナ

 コルテスとクアウモテック王

 スタンドの最上段からの眺めは格別だった。眼下のフィールドの芝の緑がすばらしく、その刈り後が、キックオフ・マークを中心に円形の波紋状となっていた。

 目をあげると、バックスタンドの左側に、大きな裾野をもつ山が、雲をかぶっていた。“あれは、たぶんマリンチェ火山だろう。そうすると、コルテスたちは、あの左側を通って、チョルーラへやってきたのか”――。

 アステカ王国を攻略し、スペイン支配を確立したコルテスたちが、ベラクルスに上陸してから、アステカ王国の外縁に近づくとき、どのような感慨を持ったのか――などと想像する。

 1986年6月16日、ワールドカップ・メキシコ大会は、すでに決勝ラウンドにはいり、前日に、メキシコがブルガリアを破り、ベルギーがソ連を倒して、ベスト8に進出した。この日の2試合は、グアダラハラでのブラジル−ポーランド、そしてここ、プエプラでのアルゼンチン−ウルグアイが組まれていた。

 プエプラは、メキシコ・シティから約130キロの東南にある人口60万人の都市、16世紀になってスペイン人が、インディオと白人が仲よく平等に働き、暮らすという理想を画いてつくりあげたというが、わたしたちには、1968年のメキシコ・オリンピックのサッカー会場、それも1次リーグB組で日本がナイジェリア(3−1)、ブラジル(1−1)と戦った“戦場”として記憶に新しい。

 戦場といえば、プエプラ市より少し西方のチョルーラは、16世紀には栄えた町だったのが、コルテスの率いるスペイン軍に制圧されたところ。ベラクルスに上陸してから半年もたたぬうちで、コルテスはこのあと1年ちょっとで、1521年のテノチティトラン(メキシコ・シティ)の占領を達成する。そのコルテスによって処刑されたアステカ最後の王の名がクアウモテック。プエプラのスタジアムの名は、勇敢に戦ったこの王に由来するらしい。

 メキシコ・シティのプレス・センターから、プエプラまでプレス・バスが用意されていたが、この日、わたしは、高橋英辰さん――通称ロクさんとハイヤーでやってきた。

 サッカーの指導者として長いキャリアを持つ高橋さんは、またユニークなコメンテイターでもある。朝10時30分にメキシコ・シティのパセオ・デ・レフォルマ250の5階にある日立本社のオフィスで待ち合わせ、11時に車に乗り、高速道路を東へ走る。メキシコ中央高原の盆地を抜け出しポポカテペトル(5452メートル)、イスタシワトル(5280メートル)の2つの火山を右に見ながら3000メートルの稜線をこえる。ゆったりした高原状の峠についたのが12時10分。高度2400メートルの市中部から、いきなり6百をメートルのぼったためか、ちょっと頭痛がする。「ああ、高山病かナ」と思っているうち、すぐ下り坂にかかって、それも解消してしまった。


 マラドーナのキープ

 午後4時キックオフ。ラプラタ河をはさむライバルの対戦は、まずマラドーナのドリブルが目立つ。11分に彼が左サイドをタテに走り、ゴールライン近くから左足で低いクロスをゴール前へ、GKアルベスのとれないタマへ、バルダーノがとびこんだが、ウルグアイDFが併走したため、バルダーノの足を出すタイミングがくるって、得点にはならなかった。ウルグアイのスターはフランチェスコリ。アルゼンチンのリバープレートで働き、マラドーナと並ぶ人気選手。相手DFをかわして出るところは、さすがだが、パスがいまひとつ。もう少し全体が開けば、楽になるだろうと考えるが、このあたりが、彼らのスタイルというのだろう。

 それにしても、1対1のボールの奪い合い、パスの受け方、相手をかわすタイミング、ひとつひとつの局面での、かけ引き、身のこなし、ボールタッチは、まことにハイレベル、ダメとわかったときの、ファウルをさらりとやってのけるズウズウしさ、そして、互いに相手の意図を察しながら、そのファウルに対して、ケンカにならないところが面白かった。

 そんなハイレベルのなかで、マラドーナのプレーが光る。ある局面を開拓するだけでなく、彼には、ひとつの開拓は、ラストのシュートチャンスまでのつながりを意味する。

 42分に自陣で相手ボールを取ったアルゼンチンがパスをつなぐ。まずブルチャガが右サイドで受け、ジュスティへ。ジュスティは小さく中央のマラドーナへ、マラドーナはマーク相手を、中へ抜くとみせて切りかえし、もうひとつ、ステップをふんでおいて、バチスタにわたす。バチスタはブルチャガにわたす。彼は中央のバルダーノへ。バルダーノのシュートチャンスにウルグアイDFぺレイラが足を出してボールは左へころがる。そこにノーマークのパスクリがいて冷静にシュートをきめた。

 マラドーナが、ひとつターンしてキープしたところ、そして、そのあとの軽いタッチ(早いタイミング)のパスをバチスタへ送ったところが、あるいは、“ミソ”であったかも知れない。

 この一種の“溜め”でパスクリやブルチャガらのフォローの時間的余裕があったといえる。


 アルゼンチンの充実

 後半にはいっても、マラドーナのドリブルは冴えた。4分に右サイドを走って、中へのクロス、こんどはパスクリがとびこんだが、ダメ。8分にもマラドーナのドリブルからパスクリ、ブルチャガとわたって、ブルチャガのシュートをウルグアイDFが防ぐ。15分にはマラドーナがブルチャガからのパスをうけてノーマークでドリブルシュート。珍しく右足のシュートだったが、GKが防いだ。

 ウルグアイはこの直後にルベン・パスを投入する。マラドーナと同じ1979年ワールドユースで活躍したパスは、この大会では、あまり使われていない。彼は、いきなり左サイドをドリブルし、2人抜いて中へクロスを送る。(GKがとる)。

 このころからスタンド上段には強い風が吹きはじめる、とみると、空いっぱい雲が広がり、雨が降りはじめた。激しい雨で滑りやすくなったフィールドをマラドーナは楽々とかけ抜け、かけ巡って、彼の足や体の関節のひとつひとつの強さ、しなやかさを証明する。

 1次リーグの対韓国、対ブルガリア、そしてこの試合とマラドーナはナマで見れば見るほどすばらしい。

 なによりも、伝統的なライバルとして、エキサイトしがちなウルグアイ選手を相手に、クールに、そして、ときには相手を慰めるしぐさをまじえるところは心憎い。

 あと5分くらいのところで、アルゼンチンのDFがスリップしてボールを奪われ、ウルグアイのカブレラにシュートチャンスがあったが、GKプンピードが防いだ。

 スタンドを吹き抜ける強風にノートを手で押さえながら観戦していたわれわれは、タイムアップの笛にホッとする。

 ウルグアイは1次リーグ第1戦で西ドイツと引き分け、第2戦は雨中の反則退場で10人でデンマークと戦い1−6で大敗、第3戦のスコットランドも反則退場で10人となりながら守りの固さで0−0。決勝ラウンドに進出した。1930年モンテビデオで開催した第1回ワールドカップでアルゼンチンを破って優勝。1950年ブラジル大会では、決勝で地元ブラジル有利の予想を覆してタイトルを獲得した。そんな勝負強さに定評のある“小さな大国”ウルグアイだが、この日の試合では、やはりマラドーナのアルゼンチンには1歩譲ることになった。

 帰路のクオタ(高速道路)はすっかり晴れていた。快適に走るフォード車のなかで、わたしは、メキシコ高原地帯の天候の移り変わりの激しさから、「メキシコでは1日の中に四季がある」という誰かの言葉を思いだした。そしてまた、その天候の激変が、インディオの宗教や習慣に影響を与え、アステカのあの、われわれに理解しがたい“宇宙観”を生みだしたのかも知れない――などと考えるのだった。


 他をつかうことで自分を生かす

 それにしても――とそのときの車中のメモにある。それにしても――南米のサッカー、とりわけ、マラドーナという、固いゴムマリのような、男を軸にしたアルゼンチン・サッカーの面白さ、魅力的なこと。

 そのマラドーナが、仲間を使い、仲間を生かすプレーをすることで、自分もまた生きていること。彼の充実がそのままアルゼンチンの充実につながっている。1978年に優勝したときのアルゼンチンでさえ、同じ南米のブラジルには旗色が悪かったし、81年のコパ・デ・オーロでも、82年のスペイン・ワールドカップでもそうだったが、こんどはすぐれたゲームメーカーの成長によって、チームが大きく、鋭くなった。

 巧みに体をからませてくる“いやーな相手”ウルグアイを撃破したことでアルゼンチンの選手たちは自信をもったことだろう――わたしは彼らの成長を証明する現場にいあわせた幸いをかみしめるのだった。

旅の日程

▽6月16日 プエプラ。

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