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炎暑のモンテレイでモロッコをねじ伏せた西ドイツのタフネスに驚く!

 テレビの画面のなかで白いユニホームのフランスが生き生きとし、ブルーのイタリアを圧倒していた。

 1986年6月17日、昼すぎ、モンテレイ市のクラウン・プラサ・ホテルのエアコンディションのきいた部屋で、ゆっくりとカラーテレビを見るという、久しぶりの“ぜいたく”を味わっていた。

 86年メキシコ・ワールドカップは5月31日の開幕から18日が過ぎた。24チームを6組に分けた1次リーグがおわり、16チームによる第2ラウンド(KOシステム)にはいっていた。そのオクタボ・デ・フィナル(OCTAVO DE FINAL=8分の1決勝というのか)は、まず、

▽6月15日に、アステカでメキシコがブルガリアを破り、レオンでベルギーがソ連に大逆転する波乱となり、
▽6月16日には、グアダラハラでブラジルがポーランドに4−0で快勝し、プエプラでアルゼンチンがウルグアイを1−0で押さえて準々決勝へ進出していた。

 15日にはレオンへバス(片道400キロ)で、16日にはプエプラへタクシー(片道150キロ)で往復したあと、この日、早朝、メヒカーナ航空の714便でメキシコ市から950キロ離れたモンテレイ市に飛んできた。ここでの目当ては、午後4時キックオフの西ドイツ−モロッコ戦だが、メキシコ・シティでのフランス−イタリア戦も見のがしたくないゲーム。ホテルのルームでのテレビ観戦となった。


 アメリカ的なモンテレイ市

 このモンテレイ・プラサ・ホテルはホリディ・イン系列で、料金は3万5千ペソ、15%の税がついて、4万ペソ(1万円と少々)。2階の1部がプレス・センターにあてられていて、到着後、まずそこでプレス用のチケットをもらい、フロントへおりて、チェック・インをした。前夜、電話で予約した。受け付けた係りはTONIといっていた、というと、ハイ、予約は受けています。カードをお持ちですかときく。アメックスを見せながら、彼女の英語の美しい発音で、ここがアメリカに近いのを実感する。

 部屋へあがるエレベーターの前でウーベ・ゼーラーに会う。メキシコ・シティのアディダス・クラブで会ったばかり。「西ドイツは勝てるでしょうネ」ときくと、「点をとればネ」と答えた。

 モンテレイ市は人口150万人、グアダラハラにつぐメキシコ第3の都市(グアダラハラを超えたともいう)、ヌエボ・レオン州の州都でもあり、工業都市として、ここ20年間の開発がめざましい――。と案内書にある。地図をみると、国境のリオ・ブラボー河(アメリカ側の地図はリオ・グランデ河)まで200キロ余、テキサス州の大都市サン・アントニオまで500キロ。アメリカの影響が強く、スポーツでもメキシコ野球界の功労者を讃えるホール・オブ・フェイム(名誉の殿堂)が市中にある。そう――野球といえば、大リーグ・ドジャーズの人気投手・バレンズエラも有名だ。

 野球はともかく、平野のなかにある町との想像とは違い、市のすぐ背後に高い山がつらなっている。シエラ・マドレ・オリエンタ(東マドレ山脈)。SIERRA(シエラ)のもうひとつの意味である「ノコギリ」のように、峨々(がが)たる峰が、ピークとピークの間に大きな切れ目をみせながら連なっている。松本から穂高の連山を見るよりも、なお近い感じ。そして、市のはずれに、セロ・デ・ラ・シラ(CERRO DE LA SILLA)「鞍(クラ)の山」が、小さいながら、特異な姿で立っている。馬につける鞍のように、ふたつのピーク間に、大きな凹みのあるこの山は、市の景観には欠かせぬ感じで、たいていの絵葉書にうつっている。

 山が近くにあって、景色がよく、ホテルの設備がよければ、うれしくなる。そういえばきょうは朝から悪くはなかった。と、メキシコ・シティのホテルを出る前に家族から電話がかかってきたこと。機内朝食のパイ皮でつつんだ肉のミンチがおいしかったことなどを思いだす。


 フランスの攻めあがり

 さて“カラー”テレビの方は、フランスの攻めに対して、イタリアは例によって、守りを厚くし、カウンターをきかそうとする作戦。14分にイタリアが自陣FKから右よりのアルトベリに渡したのを、アモロが奪い、フェルナンデスへ。そのまま左を走るアモロ、右へ開くプラティニをみながら、フェルナンデスは中央のロシュトーへ。ロシュトーは、相手(ビエルチョウッドだったか)の前で、すばやくターンし、左足で右へボールを流す。相手のマタの下を通ったボールは、内へよったシレアの前をすぎ、ペナルティーエリア7、8メートル手前でプラティニにわたる。走る勢いをころさずプラティニは、追走のシレアを右にはずしてシュートした。ストピラ、ロシュトーの2トップのラインへ、相手ボールを奪うとすぐ第2列のプラティニ、第3列のアモロがあがって、4人になるフランスに、この日の彼らの勢いをみるとともに、あらためて2トップの現代サッカーの面白味を感じる。

 後半は、プレス・ルームへテレビを見にいく。1人で部屋で見ているのはいいが、プレス・バスに遅れると困るからだ。

 後半11分にも、ロシュトーから右へ出たパスをストピラがノーマークで走りこんできて強烈なシュートを二アポストへきめて2−0。こんどのチャンスはティガナの一気のドリブルからで、ハーフラインでロシュトーからパスをうけた後に突進し、ゴール正面へ詰めたロシュトーにわたしたもの。

 フランスにとって、プラティニにとっては78年ワールドカップの1次リーグで敗れた“借り”をかえした形だが、イタリアでは、シレアやカブリーニなどのDFが、あまりに、手ひどいタックルにもいけなかったようだ。いまのフランスのようなチームに勝つには、やはり、かつてのジュンチ−レのような選手が必要だったのか。


 ルムメニゲとマテウス

 テレビでフランスのパスとドリブルの攻撃を堪能(たんのう)したあとは、ユニバーシティ・スタジアム(スペイン語では、ESTADIO UNIVERSITARIO DE LA U.A.N.L)での西ドイツ−モロッコ、収容43561人のスタジアムは市の中心部に近く、最上階の記者席から例の「セロ・デ・ラ・シラ」がよくみえる。北緯26度あたり、日本でいえば沖縄の位置、6月の太陽、しかも高度はメキシコ・シティよりはるかに低いから、さすがに暑い。北アフリカのモロッコ人には、ともかく、北緯50度のドイツ人にはこたえるだろう。試合前の国歌吹奏のときに、両軍のベンチをみたら、ドイツ側はビニールの覆いの上に国旗その他の布地をかぶせて光線をさえぎっていた。

 気温33度、湿度51パーセントという条件のなかで、西ドイツはベテランのルムメニゲをスタートから起用する。

 1970年ワールドカップでやはりモロッコに苦戦(2−1)した経験を持つベッケンバウアーの“得点”への願望があらわれていた。

 そのルムメニゲが前半終わり頃、左からのアロフスのクロスに対し、ノーマークでシュートしながら、GKザキに防がれて口惜しがる。左サイドのスローインから、ボールをうけて、相手をタテにはずしたアロフスが、左足で早いクロスを送った。これに対して、右サイドから走りこんだルムメニゲは、バウンドにあわせ、すべり込むような形でボレーシュートしたもの。右足インサイドでけったタマは、ゴール左スミへ飛ぼうとし、ちょうど中央へもどろうとしたGKザキが、みごとな反射で、これを叩いた。

 GKザキの反応をほめるのは当然としても、わたしには、全盛期のルムメニゲなら、もっと早くボールにつめ、相手ゴールキーパーのいないところへ、叩きこんでいたハズだと思った。

 西ドイツは、ミッドフィールドでのパスが常識的なのと、突破するときと、そうでないときが、スタンドからみていても、はっきりしている。モロッコの方は、守りを厚くして、まず防ぐことを第一に考えているようだから、なかなか決定的なシュートをつくれない。さきのルムメニゲのシュートの場面でも、左サイドで1人はずしたアロフスに2人のDFがいき、ゴール前に、もう1人DFが残っていた。そこへ、ルムメニゲが1人だけ走りこんでいるという状態だった。

 と、いっても、この炎天下での西ドイツの運動量の大きさと、早さはただ驚くほかはない。

 FKやCKでゴール前へあがっていった選手が相手ボールのときの帰陣の早いこと。

 後半にはいっても西ドイツが攻めモロッコが守る。なかでもマテウスの精力的な動きが目立っている。25分のアロフスのシュートがザキの正面へとび、30分のルムメニゲのヘディングがバーをこえる。

 そのしばらくあと、マテウスが中央をドリブルし、もつれて倒れたとき、ルムメニゲとちょっと言い合った。左にいたルムメニゲがパスをよこせとか、なんとかいったのだろう、それに対しマテウスは前方を指さしていたから、横に立っていないで、前にはいってくれ、といったのではないか――。

 だいぶイラだっていると感じながら、切れ味の鈍くなったルムメニゲと上昇中のマテウスの2人の間がらをふと思った。


 オーラのなかでのロングFK

 スタンドの思惑とは別に、選手は力を合わせて攻め込む。モロッコが時間かせぎのように後方でゆっくりボールをまわしはじめる。延長に持ちこみ、暑さを味方にするのだろうか、13回もハーフライン手前でパスがつながって、西ドイツ側からブーイング。メキシコ人の観衆は「オーラ」。例のバンザイの格好をするのが、試合そっちのけでスタンドを波のようにうねっていく。ここは、オーラの本場、アメリカの野球の応援席にならったという説もあるが、ともかく、メキシコ・サッカーでは、トーマス・ボーイ(メキシコ代表主将)らのいるここのプロ・チーム「タイガース」の応援ではじまり、それこそ波のように全国へ広がったのだという。

 そのオーラがきいたのかどうか、西ドイツが41分の連続シュートのチャンスをものにできなかったあと42分に25メートルのFKをマテウスがきめて、ついに1点をもぎとった。

 3人がつくったカベの外側、ぎりぎりのところを(相手はまさか直接ねらうとは考えていなかったのではないか)地をはうようなライナーが通りすぎるまで、GKザキにはボールは見えなかったらしい。

 タイムアップのあと、モロッコの選手たちと西ドイツ選手とがユニホームの交換をしはじめるのをみながら、ここまできた彼らの喜びを思い、また、ベッケンバウアー監督が、ともかくベスト8に残ったことに、ホッとしながら、84年欧州選手権で失敗したルムメニゲ、ブリーゲル、アロフス、フェルスターらが、マテウスやベルトルドらの新しい波を得て、ワールドカップのステップを1歩ずつ登る“勝負強さ”に脱帽するのだった。

旅の日程

▽6月17日 モンテレイ。

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