賀川サッカーライブラリー Home > Stories > >サッカーの母国の快勝を目にした後は心あたたまる人と触れ合う楽しさ

サッカーの母国の快勝を目にした後は心あたたまる人と触れ合う楽しさ

 おいしく忙しい機内食

 ジュースと果物、オムレツと小さなパンとクッキーがひとつずつ。それにコーヒー。簡単な機内朝食がおいしかった。87年6月21日朝、8時5分にメキシコ・シティの空港を飛び立ったアエロメヒコ空港1188便はグアダラハラへ向かっていた。離陸して、水平飛行に移ると、10分後に、機内食がサービスされ、その20分後には、機はゆっくりと高度をさげはじめていた。

 この日は、朝5時に、5月末から3週間、世話になったホテル・モンテレアルを引きはらい、ホテル・セビジャに移った。レフォルマの大通りのクアウテモック記念碑に近く、そばに芸術公園(JARDIN DELARTE)があって、わかりやすい。前のホテル・モンテレアルも、アレメダ・センントラルという公園に近く、また海軍省という目印もあったのだが、なにしろ、通りの名前が(RE VILLAGIGEDO)レビジャヒヘドとわたしにはむずかしい発音。タクシーに乗るたびに運転手さんに、発音をなおされる始末だった。

 例によって、滞在が続くと、新聞やパンフレットの類がふえ、移動にはひとアセかいてしまう。

 それでも、この日は、決勝ラウンドの準々決勝。しかも、フランス-ブラジル戦という好カードに、こちらの気分も、朝から昂揚していたから、予定どおり、荷物をおさめ、食事もとらずに車で飛行場へかけつけた。7時45分発の予定が20分遅れて離陸すると、珍しくもポポカテペトルとイスタシワトルの2つの山頂が雲の上にみえた。


 決勝ラウンドのハイライト

 きょうの旅は、幸先(さいさき)がよいぞ、とちょっとうれしくなる。

 5月31日の開幕からはじまった「メヒコ’86」は6月13日で1次リーグを終わり、さらに6月15日から18日までの決勝ラウンド1回戦で16チームから8チームが勝ち残っていた。

 前回のスペイン大会は初めの24カ国参加を、1次リーグで12チームにしぼったあと、2次戦を3チームずつ4組に分けて、各組リーグを行ったのが不評だったため、今回は2次ラウンド以降をノックアウトシステムにしたところ、8試合とも、まことに波乱に富み、スリル満点だった。

 わたしは▽6月15日にベルギーがソ連を延長で倒すのに驚き(同じ日、メキシコがブルガリアに勝つ)

 ▽16日にはアルゼンチンとウルグアイというライバルの対決をプエブラで観戦し(同じ日、ブラジルがポーランドに快勝)
 
 ▽17日にはモンテレイで、西ドイツがマテウスのFKで健闘モロッコをねじ伏せるのに立ち合った(テレビでプラティニのフランスが前チャンピオンを撃破するのを堪能)

 ▽そして、翌18日、モンテレイから1時間半の飛行でメキシコ・シティにもどり、アステカで久しぶりにイングランドのオープン攻撃を楽しんだ。プレス・センターのテレビで見た”1次リーグの花”デンマークの大敗はショックではあったが、サッカーの母国の復活を自分の目で確かめられたのが、うれしかった。


 サッカーの母国への畏敬と不満

 フットボール発祥の地として、世界中から尊敬されるイングランドは1966年の優勝いらい、ワールドカップのタイトルから遠ざかっている。1970年のメキシコで、ボビー・ムーアやチャールトンたちが、ペレのブラジルと1次リーグで大接戦(0-1)を演じ、ベッケンバウアーとミュラーの西ドイツに準々決勝で(2-3)惜敗してから、74年は予選でポーランドに、78年もイタリアに屈して本大会に進めなかった。

 82年スペインで久しぶりに登場したイングランドだったが、若いロブソンやウィルキンスの頑張りはあっても、主将のケビン・キーガンが負傷で欠場し、暑熱のビルバオで彼らの身上というべき「剛毅」を発揮しながら、2次リーグではシリすぼみになってしまった。

 キーガンが軸となるイングランド代表を見たいと、80年の欧州選手権にイタリアへ足を伸ばして期待を裏切られたわたしは、トヨタカップでのイングランド勢の無得点もかさなって、サッカーの母国に、畏敬と不満をあわせ持つようになっていた。


 リネカーのフィニッシュ

 18日、アステカ競技場にぞくぞくとつめかけるサポーター、スタンドにずらりとユニオンジャックがかかる。

 白シャツ、紺パンツのイングランドと、赤白タテジマ、白パンツのパラグアイ。パラグアイの方は、すでに1次リーグで、わたしには馴染んだ顔ぶれ(このうちDFのトラレスやデルガド、GKフェルナンデスたちは、ことし1月の南米選抜のメンバーとして来日しマラドーナとともに、日本のファンにいいプレーをみせてくれた)。彼らの小さいパスでの攻めこみが、イングランドの守りをどう崩すのか――。

 勝負のヤマは30分にやってきた。パラグアイの攻めがつづき、カニェテのダイレクトシュートにスタジアムが沸く。さすがにシルトンがタッチしてCKとなる。このCKから左のスローイン、そして浮きダマのパスとつづく第2波をしのいだイングランドは、攻めに出ようとしてから、後方へバックパス、さらにGKにもどしたのを、かっさらわれて絶体絶命のピンチ、そのグラウンダーのシュートをシルトンがファインプレーのセービング。そして、大ピンチを一転して得点機にかえる。

 パスをうけたリネカーが胸のトラップで右へ大きく走り、右サイドの深いところまで進み、そこで持ちこたえてバックパス。リードがうけ、M・G・スティーブンスがつなぎ、彼が強いキック(シュートか)を中へ・・・・・・。相手にあたったリバウンドを、こんどはホドルが拾って、早いグラウンダーをゴール前へ、そこにはちゃんと、さきほどのリネカーがいた。そのリネカーが足を出すより早く、ボールは左ポストへ流れる。パラグアイのバックラインの裏とGKフェルナンデスの間を斜めに走りぬけたボールが、ゴールラインに達する前に、左サイドからかけこんできたのは、ホッジだったか――、彼がダイレクトで折り返すと、ゴール正面で、先刻のスライディングから立ち上がったリネカーがノーマークでいて、こんどは確信をもって右足にあてた。

 右サイドの厚味ある攻撃、相手DFラインの裏へ通し、外側から、走りこんでくる――、まさにOh! ENGLANDだった。

 このゴールは、ポーランド戦での3得点がフロックでないこと、彼らの得点を組み立てるイメージが定まっていることを、わたしたちに示すとともに、チーム全体の大きな自信につながったに違いない。

 後半10分に右CKから、ブッチャーの強烈なシュート、防ごうとしたGKフェルナンデスがはじいたのをベアーズリーがきめて2-0とし、28分には、これまた文句のない組み立てで3点目を奪った。攻めこまれたあと、シルトンが右へ投げ、ホドルがドリブルして中央のリネカーへ。リネカーは右サイドのM・G・スティーブンスへ。一気のカウンターはできぬとみて、広いスペースを前方にあけたままM・G・スティーブンスはホドルにもどす。長身で骨ばった感じのホドルは、体つきとは関係なく、柔らかいボールテクニックと、全体を見る目は実にスマートだ。そのホドルがキープしている横をスルスルと前方のスペースへ走りあがったのは、後半にリードと代わっていたG・A・スティーブンス。ホドルからのタテパスをうけ、相手DFが接近すると中へパス。中央のリネカーは完全にフリーになっていて、このチャンスをのがさなかった。

 もちろん、2−0とリードされたパラグアイが、ばん回をはかって、総攻撃をかけて、いささか焦りもあって集中力の鈍りはじめたときでもあったが、ここ何年かのイングランドのチームのナマの試合で(残念ながら、それほど、多くはないが)、これほどの攻撃展開とフィニッシュをみせてもらえるとは――。


 マラドーナとユニセフ

 ベスト8が決定した後あと、6月19日と20日は試合がなく、19日には高橋秀辰(たかはし・ひでとき)つまり“ロク”さんと、日立の戸田真出張所長に面会。日本食をよばれながらメキシコの話をきかせてもらう。お父さんが1936年(昭和11年)この地へ鉛筆製造設備の取り付けと、それの技術指導にわたってこられてから、いらい父子2代にわたってのメキシコの生活。歴史や風俗、日系社会、あるいは経済など、広い知識の一端をうかがった。

 つぎの日、プレス・センターでFIFA・UNICEF試合の記者会見。ユニセフ基金のために、FIFAが4年に1度開催するチャリティー・マッチで、こんどはマラドーナも出るという。彼はユニセフ大使になるらしく、記者会見にも姿をあらわし、世界の子供たちのために役に立ちたいと語った。

 5月にユニセフ主催のスポーツエイドに協力し、西宮で10マイルロドレースの開催の裏方をつとめたわたしには、貧しい少年時代をすごしたマラドーナが、慈善に協力するスターとなったことがうれしかった。

 ****

 スリリングな決勝ラウンド1回戦、心あたたまる人との接触のあった2日間の中休み――。

 そして、きょうからの準々決勝。大詰めのワールドカップへの、わたしの期待とともに、アエロメヒコ機はグアダラハラの飛行場に接近していた。

旅の日程

▽6月18日 モンテレイからメキシコ・シティへ。
▽6月19日 メキシコ・シティ。
▽6月20日 メキシコ・シティ。
▽6月21日 メキシコ・シティ。からグアダラハラへ。

↑ このページの先頭に戻る