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メキシコへの旅は新しい経験と充足感に満ち名人との心の会話の中でマラドーナを思う

 カリフォルニアの空で

「あれは、マウント・シェスタで、レイニアは、もっと向こうだと思います」

 ああ、そうか。レイニア山(4392メートル)だと思ったのがシェスタ山(4317メートル)なのか――地図で見れば海岸近くに印がついているが、さすがにアメリカは広大、ずいぶん東の方に見えたのだから、シャトルの東方にあるレイニア山と間違ったのだナ・・・・・・。

 1986年7月1日、予定より1時間遅れてロサンゼルス国際空港を離陸したJAL61便は、アメリカ合衆国の西、カリフォルニアを北上していた。

 ジャンボ機の2階の席、それも、全列の右窓側。快晴とくれば、心は浮き立つ。その窓から、はるか右手前方に、雲をしたがえた堂々たる山容を見れば、なおさらである。

 それにしても、いそがしかったナ――と思う。いや、いそがしいというより、追われた――というべきかナ――とふりかえる。

 ほんとに、アッという間の1ヵ月だった。5月29日午後3時に大阪をJAL52便で出て、成田で62便に乗りかえてロサンゼルス経由でメキシコ・シティについたのが5月30日夜。翌、5月31日の開幕試合、イタリア−ブルガリア戦から、6月29日のアルゼンチン−西ドイツの決勝まで、24チーム(6組に分かれての)の1次リーグから、16チームが勝ち残っての1回戦、準々決勝、準決勝、3位決定――と52試合は、かけ足で過ぎ去ってしまった。

 1978年まで、本大会の出場は16チームだったのが、82年スペインから、24になった。試合をたくさん見られるかわりに、休める日がない、という“ぜいたく”な悩みも出てきた。その上、組織委員会というより、JVC(ジャパン・ビクター)がビデオ室を整えてくれたおかげで、見そこなった試合をビデオで見られる。あるいは、見たシーンをもう1度、確認できるのも、ありがたいが、そのため、ゲームのない日もビデオ室に入りびたりということにもなった。

 その繁忙のしめくくりが、昨日だったろう。


 宴(うたげ)のあとの繁忙

 6月29日、アルゼンチンが西ドイツを破って2度目のFIFAトロフィーを手にするのを見たあと、プレス・センターでレポートを書き、ホテル・スリバンへ帰ったのが午前2時をまわっていた。

 つぎの30日の朝、7時に起きて荷物のパッキング。いつもの大会取材と同ように、パンフレット、新聞、ポスターなどをひとまとめにし、エア・カーゴ(航空貨物)で送らなければならない。ホセ・マリア・リコ102・メキシコ。つまりメキシコ大通りと交差するホセ・マリア・リコ通り。ホテルから車で30分のところにある「K(ケイ)ライン」のカーゴ係まで運び、担当の西垣氏にたのむ。ラテン系のノンビリムードの社会のなかで、航空貨物のエージェントは、女の子までテキパキしている(イタリアでも、スペインでも、アルゼンチンでもそうだった)ので助かるが、この日は、日本人の社員が「全部、ちゃんとやっておきますから」といってくれるのだから、有難いこと、この上なしだ。

 ひとつ用事を片づけて、遅い朝食をプレス・センター隣のエル・プレジデンテ・ホテルのティー・ルームですませたのが12時。

 午後は土産品のティーシャツや、大会マークのついたキャップなどを買い、4時30分にホテル・スリバンにもどって宿泊料の精算をして、集合地点のモンテ・レアル・ホテルへ。そこでツアー・パーティーの人たちに合流してバスに乗り込み空港へ。

 いつもの1人旅と違って、今回は往復の飛行機を団体ツアーに便乗させてもらっているので、荷物チェックなどは係の人がしてくれる。通関してから時間があるので、デューティー・フリーの店をのぞいたけれど、気にいったものは、あまりない。アステカの太陽石デザインのスプーンと大会マークのついたクリスタルを買っただけ。

 メキシコ航空308便は午後9時40分の予定が11時に離陸してロサンゼルスへは深夜についた。


 デューティー・フリーの店で

 カリフォルニアの空は、大きくて青い。

 7月1日、目をさましたのは6時ごろだった。リンカーン・ブルーバード(並木路=つまり大通り)に面したAMFACホテルは空港に近く、豪華ではないが、敷地が広く、美しい庭をもつ2階建て。なにより清潔なのがいい。朝食は、タマゴ2個分のスクランブル(ハム)、ポテトのバター焼きがおいしい。フルーツの量は、メキシコのホテルよりは少ないが、さすがにオレンジジュースは本場の味だ。

 空港についたら、まだ搭乗手続きの時間になっていないという。それでも、スーベニア・ショップへはいりたい客のために、ショップ用の搭乗証がくばられ、さすがに、買物好きの日本人ツアーを扱う添乗さんやJALの手ぎわに感心する。

 もっとも、折角、店にはいっても、ドル($)の表示を、つい前日までのメキシコのペソの頭で考えるものだから、どれもこれも高価に思えて買う気がしない。それでも、バラインタイン30年ものやワールドカップの記念ボールのカミュなど、自分では飲みもしない酒類を買って355ドルも払ったのだから、ボクもやはり日本人なのだろう。


 すぐれた個性の集団

 合衆国の西海岸を北上した飛行機は、やがて、北西に機種をふって洋上に出る。これから北太平洋を横切りアラスカ、アリューシャンをかすめて日本へ向かうのだ。

 北米大陸とお別れ。メキシコにも、さようなら――と思う。

 今回のわたしの旅は、はじめてのメキシコ、はじめてのアメリカ西海岸だった。1970年のワールドカップのとき、自分が運動部長をしているスポーツ紙の創刊記念行事が日常業務にかさなって、折角の自費取材のために貯金をし、記者登録もしていたのに、結局は、日々の現場を離れることはできなかった。

 幸いにも、つぎのワールドカップ、1974年からは何回か、1ヵ月近く留守をし、会社での仕事をしばらく、あけることができるようになった。

 それは、スポーツ紙づくりが成功し、社内に多少の余裕ができたせいでもあったし、周囲の仲間の理解が得られたからでもある。

 おかげで、世界のトップ・クラスの個性がひとつの集合体となって、ぶつかり合う面白さに酔い、その楽しみをレポートする喜びに浸るようになった。

 1936年のベルリン・オリンピック以来、多くの先輩たちが経験してきたこと、東京オリンピック(1964年)前後からの国際交流で、仲間たちが見てきたこと、そんなひとつひとつを、自分の目と、耳で見聞し、確認し、新たな発見をする。ひとつの試合を見て、ひとつの都市を訪れて、これまで抱いていた疑問をときほぐしてゆく、そんな幸(しあわせ)をくり返してきた。

 そして60歳をすでに越え、新聞編集の現場を離れた今回も、またひとつ、新しい経験をつむことができた。


 “名人”との心の対話

 そう、その新しい経験、マラドーナという天才児がスーパーヒーローになった、この大会の締めくくりを、これからのフライトの間に書きあげてしまうのだ。そんな、ちょっとした気負いと、充足感のなかで、ひとつだけカゲがあった。

 それは、そのマラドーナのこと、大会の1人ひとりのことを、報告し、そして、そのお返しに“禅味”のある批評を聞かせてもらう先輩を失ってしまったことだ。

 ベルリン・オリンピックの日本代表者のセンターフォワードで、昭和7年から戦前に活躍した川本泰三さん。戦後も、40歳まで日本代表の選手として若手に尊敬された“名人”の話を聞くことは、わたしには、なによりの励みだった。大選手・釜本クンも川本さんに啓発されることが多かったハズ。シュートのタイミング、相手から“消える”こと、自分で感得し、実戦でつかみ、成功したものでなければ、語れない言葉が“名人”独特の表現で、わたしたちの年代の仲間や、メキシコ五輪の中核選手たちに刺激となっていた。

 74年のワールドカップのときでも、帰国したわたしが「1人ひとりのボールを持つときの強さにあらためて感心した」と報告すると、名人は「オランダのトータル・サッカーとか、ローテーションとか、新しい言葉にとびつくのもいいが、その新しいオランダも、新しくないスウェーデンでも、ボールを持ったものが1対1のときに有利である。という原則は同じなのだから」と答えた。スウェーデンの選手も、ボールを持てば1対1なら取られない。そこにすべての基礎がある。ワールドカップに出てくるクラスはすべてそうなのだ、日本のプレーヤーは、まだアジア・レベルでも、ボールを持ったとき、目の前の1人の相手に対して優位にたてるか、といえば、そうではない。というのだった。

 78年のときのテレビで見たケンペスの印象をひとことで「あれは部品やなぁ」と――。ケンペスはゲームメークはできなけれど、ゴール前へ、あの形で出てくるときは断然強いことを指し、そうした部品を、うまく組み合わせるのがサッカーで、オールラウンドの選手を要求していた、当時の風潮に対する一言だった。

 そうした川本さんの考えは、いつも日本の力の現状を見てのことだった。

 そんな川本さんは、前の年、1985年9月20日に71歳で去ってしまった。

 マラドーナに対する「ずばり一言」を、ドリブラーでシューターでゲームメークの上手だった“名人”から聞きたいのに――、そして自陣ペナルティーエリアでボールを得たストライカーが、パスをつなぎ、長走して得点へ結ぶ、それもフィールドをクロスするというアルゼンチンの高い戦術と技術と体力とを、いまの日本のレベルに比べたとき、どんなふうにわれわれへのヒントを語ってくれるのだろうか――。

“やっぱり、アルゼンチンの選手はボールの持ち方がうまい”、“要はキープだよ”と川本さんはいうのかナ。いや、そんな“常識的”ないい方はしないのかナ。

 座席の前のデスクに原稿用紙を広げたまま、しばらく、わたしは、高度1万メートルで、天国との心のやりとりをした。そして思った。“来年の南米選手権でもう1度マラドーナを見るつもりです”といったら「オマエも好きやなぁ」とニヤリとするだろうと――。

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