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回想のW杯と世界を包みこむサッカーの大きさ
車イスと銃を持つ兵士達
ミラノの空は高く、日ざしは強かった。日かげを求めてバックスタンドの席からダグアウトの通路を散歩する。
銃を持つ警備の兵士や監視員にまじって車イスの人たちが、そこから目を輝かし、グラウンドを見ていた。
1990年6月8日、午後4時、ワールドカップの開会まで1時間ばかり前だった。
ああ、ここでも、ちゃんと体の不自由な人を招待しているんだなとあらためて思う。あれは1977年にヨーロッパをかけ足ツアーしたときだった。
バイエルン・ミュンヘンの試合、それもベッケンバウアーがアメリカへ移籍する直前だったが、そのゲームの前に、ベッケンバウアーとゲルト・ミュラーがボールを持って歩き、スタンドのソデからあらわれた車イスに乗った子供たちに、そのボールを手渡し、何かささやいたのを見た。年に何回かの招待日だったという。
スポーツが出来る、立派な体を持つことを感謝するとともに、不自由な人たちを援助し、喜ばせる、という振舞いが、こういう形で自然にやれるヨーロッパの厚みを感じたのは、そのときだった。
第14回ワールドカップ「イタリア・ノバンタ(90)」として華やかに開く式典の前に、わたしは、あらためてヨーロッパを思うのだった。
日本選手団は66年に初体験
ワールドカップ、あるいはサッカーの世界選手権という名を聞き、これを実際に見たいと考えるようになったのはいつのことだったか、まだ戦中派のプレーヤーが日本代表に顔をつらねていた1954年に、初めて日本がワールドカップ予選というものを経験した。
アジアからは、韓国と二国で予選をし、1分1敗で負けた。その54年大会に新聞社へメディアの案内を送ってきたのを読んだことがある。もちろん、当時の日本サッカーはオリンピック第一主義だったが・・・・・・。
そのころから40年近くが過ぎた。こんどの大会も、記者として取材に来ているが、一度はファンの観客席で見てみたいと、サッカー狂会の後藤建生氏にたのんで入場券を売ってもらい、バックスタンドの下から6段目の席に、ツアーの人たちと並んですわることになっていた。
1966年のイングランドの大会のときに日本代表チームは欧州遠征の途中に、ウェンブリーで、その決勝を見た。「正直いって、ただ、ただ、感心してみていた」というのが多くの選手の感想だった。そして1970年には何人かのプレスの人たちがメキシコでペレやトスタンのブラジルが三度目の優勝をするのを自分たちの目で見た。大谷四郎さんや、牛木素吉郎氏ほかの観戦記によって、日本でも、オリンピックとは別に、ワールドカップという、サッカーだけの、とても人気のある大会があるらしいとわかりはじめた。
その1970年は、わたし自身も取材に出かける予定で、記者登録もすませたのに、サンケイスポーツ新聞の運動部長という仕事がら1カ月近くも会社を留守にできず、結局、見送ってしまった。
そして1974年の西ドイツ大会に、いろいろな理由をつけ、スポーツ紙として、外国チーム同士の試合を大きく掲載する新機軸ということで取材をした。もちろん、紙面効果だけでなく、いろんな伏線をひき、総合的な見地からの“自費出版”だった。当時編集局次長だったから、いまから思えば会社の上役がよく許可をしてくれたと有り難く思う。
74年からワールドカップの旅
1974年の西ドイツ大会から、「ワールドカップの旅」の連載がはじまった。
1977年には、「かけ足欧州ツアー」で、ソ連とハンガリーのW杯予選や、フランスリーグ、西ドイツリーグを、さあーっと見て通った。
1978年、アルゼンチンのW杯は「ラプラタからアンデスまで」を書くことになった。
1980年には、W杯だけでなく、イタリアでの欧州選手権と、80年暮れのウルグアイの「コパ・デ・オーロ」に出かけた。
1982年のスペインW杯は、24カ国が参加する規模となって、試合数が多く、やたらにスペイン国内をとびまわることになった。2年後、フランスでの欧州選手権でプラティニのフランス代表の絶頂期を見た。4年前の80年はルムメンゲの盛期で、若いK・H・フェルスターやブリーゲルが登場した西ドイツとは、違った熟成チームだった。そして1986年、ディエゴ・マラドーナのメキシコW杯でアメリカ合衆国という巨大な国の南にある、大きく不思議なメキシコにも心惹かれた。
そして、いままたイタリアでのW杯──。
サッカーに酔い、W杯の楽しさを語る楽しさに溺れているうちに、私の生活も変わっていった。
サッカーの海外取材以外は、1日も仕事を休まなかった編集局長の時期がすぎ、新しい企画会社をつくり、そこの社長も定年で退いた。
周囲も変わっていった。
そんな変化のなかでヨーロッパを訪れるたびに、ここの長い歴史に育まれた市民の生活、その考え方に、強い興味を持つようになった。
サッカーという市民生活に深くかかわっている競技、大衆に根を下ろしているスポーツの世界最高の大会を取材し、1人1人のプレーヤーの技術や鍛えられた体や、練りに練った戦術を見る楽しみと同時に、そうしたプレーヤーやチームを生む土壌から、それぞれの土地の人や、道具や、生活とスポーツの関連が面白かった。
開会式でのミラノ・ファッション
ダグアウトに、少年、少女がはいってきた。開会式に参加する若者たちで、付きそいの先生たちが真剣な面持ちだった。
その少女たちの入場で5時15分から開会式がはじまった。
24の大きなボールがきらびやかにフィールドに置かれ、4つのコーナーから、中央の特大のボールに若者たちが向かう。わたしたちのいるスタンドの中央、最下段の前にしつらえたステージで、歌がはじまる。つづいて美女たちがやってきた。
ミラノの誇るファッション・デザイナー4人が、アジア、ヨーロッパ、アメリカ、アフリカと四つの大陸を色とスタイルで表現し、モデルが行進するのだった。
バックスタンド側へまずやってきたのは、アジアのミラ・ショーンのデザインで、基調は黄色、ペルシャ風、インド風と、それぞれの特色を出すところがさすがに心憎い。次いで、ジャンフランコ・フェレのヨーロッパ。グリーンの衣裳が現代風、中世風と粋をこらす。正面スタンドの方から、今度はゴールうしろを通って、赤い一団が来る。バレンチノの作によるアメリカだ。もちろんUSA(アメリカ合衆国)だけの意味ではない。南北アメリカを表している。赤いハットにも南米(スペインの影響)風もあれば、メキシコ風もある、そして、自由の女神をかたどった帽子もあった。
ミッソーニのアフリカは横縞。驚くべきはモデルの黒人女性の美しさ。かつて偏見に満ちた世界では、“美しい”とは見られなかった彼女たちが、周囲も自分自身も、キレイと思うことで、これほどまでに輝くとは。
W杯の開会式は、その大会毎に趣向をこらす。
1966年はいかにもイングランドらしく、参加16チームの国旗を持った少年チームがそれぞれのユニホームを着て行進した。
1970年のメキシコも同じように少年チームの行進があった。
1974年の西ドイツ大会は、商業主義が導入され、マスコットやグッズが氾濫した最初だが、開会式も16カ国のプロの芸人たちを加わえてのショウ。ザイールのライオンの踊りや、ブラジルのサンバの踊り子たちが場内をねり歩いた。
1978年は若い国アルゼンチンらしく、若人の大集団がトラックをかけ、各国の国旗を振った。
1982年スペイン大会は、大会の公式ポスターをミロが描いたほど、芸術の国らしく演出はこっていた。スペインの各地の踊りと、少年たちがフィールドに描いた人文字(いや絵かな)のハトは平和の象徴。一人の坊やが持つサッカーボールの中から本物のハトが飛んだ。
前回のメキシコ大会は、古代アステカと現代の世界の融合がテーマだった。
昔をふりかえる、わたしを驚かせたのは、場内を一周したアジアの女性たちがフィールドをこちらへ歩いて来たとき、どこからかサッカーのボールが転がっていった。と、先頭のモデルがスソを持ちあげ右足で蹴りかえした。そのスイングの早く美しいこと、ちゃんとインステップだったのには思わず笑いがでた。
ここは、やはりイタリアだ。
アフリカ人のバネ
午後6時、チャンピオン・アルゼンチンとカメルーンの試合がはじまった。
試合の前日、応援にかけつけたアルゼンチンのメネム大統領とビラルド監督、マラドーナ主将の記者会見のもようがテレビに写っていた。マラドーナは頭髪を短くし、顔は少しヤセていた。
ゲームでのマラドーナは、あいかわらずすばらしいうまさだった。ただし動きの量が小さく、ボールを受ける前の予備動作も少なかった。味方の中でキープできるのがブルチャガしかいないので、マラドーナが最前線に出てしまうと攻撃を仕かけてゆくのがひと苦労。
彼にボールがわたると、こんどはカメルーン側のファウルの連発だった。
スターはえらいもので、86年のメキシコ大会同様に、倒されても、けられてもマラドーナは怒りの表情を出さず、淡々と“演技”してみせた。
1987年、南米選手権が新方式(一カ所に全チームが集まる)になったとき、マラドーナ見たさにアルゼンチンへ行き、そこで、バルダーノとブルチャガのいない世界チャンピオンが点を取れずに苦しむのを知った。
こんどのカメルーン戦も、まったく同じ格好だった。
得点はカメルーンのオマン・ビイクという長身の黒人のヘディングで生まれた。左からのクロスがゴールマウスでのせり合いで方向がかわり、高くあがって落下するのに、1番早く反応したのがオマン・ビイク。うしろへさがりながら、ジャンプし、上体を振って頭をボールに叩きつけた。
そのジャンプの雄大なこと、ヘディングの角度の鋭いこと、GKのプンピードは手にあてながらそらせて、ボールはゴールにころがりこんだ。
開会式のファッション・ショーで見たアフリカ女性の美しさは、試合ではアフリカ男性のバネの強さにあらわれた。
W杯は世界をそのままに
車イスの人たちを招待する思いやりもサッカーなら、マラドーナをトリッピングし倒すのもサッカー。
美しいものも汚いものも、いまの世界そのもののように包みこむサッカーだが、ようやく、世界が、平和へ、弱い者を助け、いっしょによりよい暮らしをめざそうという機運になった90年だけに、この大会でも美しいものの方が多くなってほしいと思う。
ベルリンの壁の崩壊から、一気にヨーロッパ統合へ動き出した世界のなかで、アメリカ航路を発見したコロンブスを生んだ国、イタリアでのW杯が、新しい時代にふさわしいものになるのだろうか。
これから1カ月、世界中に興奮を伝えるこの大会を、ことしも、見て歩ける幸いを巨大なスタジアムの一隅で秘かにかみしめるわたしだった。