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ホーム・ナポリでのマラドーナと、4万種類のパスタ

 パトカーの先導で

 けたたましくサイレンを鳴らしてパトカーが走る。広い道幅いっぱいに車やバスがこちらへ向かってくるのを、右側の一車線だけが、バス用なのか、緊急用なのか、市中へはいってくる車の流れに逆行して、わたしたちのプレスバスが、パトカーのうしろをついてゆく。
 1990年6月13日。ナポリのサンタルチア、有名なタマゴ城(カステル・デローボ Castel dell Ovo)からスタジアムへ運んでくれるバスが遅れ、それを取り戻そうとパトカーの先導となったのだった。

 この日の朝、私はシチリア島のパレルモにいた。前夜のオランダーエジプト戦でフリットを見たあと、アストリア・パレス・ホテルに泊まり、午前中にプレスセンターで記録などを整理し、パレルモ発午後3時25分のBM336号機でナポリへやって来た。

 シチリア島はスパゲッティの本場だからと聞いて、ゆっくりそれを楽しみたい、などと思っていても、何しろキックオフが午後9時。その前の午後5時からの試合(12日はベローナのベルギー対韓国)をテレビで見るのだから、夕食をゆっくりといった時間はない。

 つぎの日、つまり、この日も、急にパレルモの競技場の背後にある山(モンテ・ペリグリオ)の上まで行きたくなってタクシーに走ってもらったものだから、ゆっくりと昼食をとる予定も、変わってしまい、スタジアム横の競技場のレストランのランチ程度ですませてしまった。

 だから、シチリアのスパゲッティは次回までおあずけということになったのだが、さて天下の景勝ナポリの空港へついたら、タクシー乗り場は長い列。

 空港の端にあるプレスの休けい室へいってバスはないかと聞くと、ナポリ空港へのプレスの送迎バスはないという。どうやら市内が交通の大渋滞で、タクシーも立往生しているらしいという。

 しかたがないと市営バス乗り場で少し待って、バスを利用する。中央駅でバスをおり、ここからタクシーを拾ってサンタルチア通りのホテルへついた。


 プレス・センターはタマゴ城の中に

 ナポリは、私たちの仕事場というべきプレス・センターが、スタジアムと、このサンタルチア通り、つまり、この町のご自慢の景色のよいところ、しかも、名勝タマゴ城に設けてあり、ここのプレスセンターとスタジアムの間はプレスバスのサービスがある。

 ついでながら、この夜のわたしのホテルも豪華版で、お城の向かい側のグランド・ホテル・ベスビオだ。

 サンパウロ競技場。ごぞんじマラドーナのナポリのホームグラウンド。わたしは1980年の欧州選手権のときに来た。あれは西ドイツがオランダを破った(3-2)ときで、はじめてシュスターという素材を見たのだった。

 午後9時キックオフ。B組で1敗同士、世界チャンピオン・アルゼンチンとオリンピック優勝のソ連が、これに負ければ、まずB組からの決勝ラウンド進出の望みがなくなる、というのだから、サッカーもずいぶん厳しくなった。

 これも、アフリカはじめ各地のレベルアップのおかげだが、ひとつにはヨーロッパのシーズンが長くて、6月のW杯開幕までに、コンディションを整えたり、合同練習をする期間がないことからきている。したがって、1ヵ月もかかる大会に、2〜3週間の調整期間で出場するハメになり、大会の1次リーグのうちに、なんとかしようと考える。ところがこれまでは、それでやってこられたのが、各地のレベルアップ、ヘタをすると寝クビをかかれてしまうようになった。

 W杯のスケジュールを考えるか、大会の年度の各国リーグの日程を変更するか、4年に1度という大さわぎの意味が、各国リーグを普通にやっていた(多少は終了を早めてはいるが)のでは意味はあるまい。


 ホームでのマラドーナ

 フィールドに出てきたマラドーナの顔がミラノよりよほどよい。やはりホームグラウンドということだろう。中世の都市国家いらいの対抗意識の強いイタリアでは、ミラノやローマ市民にとっては、マラドーナはASローマやACミランやインター・ミラノに勝ったりするけしからん敵になる。

 だから開幕試合でもミラノでマラドーナのブーイングのひどかったこと──。

 そのマラドーナの顔が曇ったのが前半11分、カニーヒアの反則からソ連がFKのチャンス。そのシュートからボールをブンピードがとび出して防いだとき、右足を痛めてしまった。タンカで運び出す前にピラルド監督がとんでいって、本人に確かめ、仕方なくタンカに乗せた。交代はゴイコチェア。6カ月も実戦から遠ざかっているという彼の顔つきは自信満々というわけではない。

 交代直後にアルゼンチンに大ピンチが来た。ソ連の左CKからのヘディングシュートが、ゴールの方へとんだのをマラドーナの手がはじいた。ソ連の選手たちが「ハンド」のジェスチャーをしたが主審は取りあわなかった。

 4年前の86年は対イングランド戦で相手GKの手より先にマラドーナの手がボールにふれて得点になったが、今度は失点を防ぐ手になるのだから・・・。

 それにしても瞬間的プレーを見のがすのは起こりうる失敗ではあるが、マラドーナに関して2度もビックイベントの重要場面で発生するとは。

 アルゼンチンはこのピンチを切り抜けてからボールがまわる。マラドーナはGKウバロフのゴールキック(プレースキック)のときに、急にペナルティーエリアへ近づき、ウバロフがキックしたタマをジャンプして取ったりする。こういうカンがさえているときのマラドーナは相手の脅威だ。

 ブルチャガのドリブルにはじまり、マラドーナがからんだ短いパスが、左サイドへ進入してアルゼンチンらしい攻撃をみせる。これは防がれたあと、27分に左から攻めてオラルティコエチェアから文句なしのクロスがトログリオへとんでヘディングで1-0とした。

 得点がひとつ決まるとチームに自信と張りができるから不思議なもの。その気分のアヤがソ連の決定的なチャンスを2度、失敗させてしまう。

 そしてソ連側にカニーヒアを止めようとしてのファウルで退場処分がでてしまう。

 後半はじまってすぐのこの退場はソ連に大きな痛手だったが、その10人の彼らがけんめいに攻めるところがよけいに痛々しい。生き残りをかけたせい惨な試合はアルゼンチンがブルチャガの2点目で、どうやらソ連を突きはなした。

 欧州選手権で評判のよかったソ連が、大会開幕から1週間も経たないのに上位進出を諦めることになるとは、スコアがすべてのサッカーにおいては、こんな酷な事もおこりえるのだ。

 マラドーナが勝って、ともかくも望みをつないだ喜びと、こちらまで緊張していたのかこの夜は、頭の中が真っ白になった感じ。

 ホテルへ帰るなり寝てしまい、翌日、原稿を書いてファクシミリでスポーツ紙へ送る。

 イタリアはファクシミリ料金が、単に通話料だけで済まないので、A4版1枚送るだけで3000円くらいかかる。それでも、スポーツ紙が毎日送稿しろというのだから、NHKの衛星放送のおかげで日本では少しもりあがっているのだろうと、うれしくなる。


 飛行機で読んだパスタの記事

 タマゴ城のプレス・センターで「前の日はパレルモにいたのにシチリアのパスタを食べそこねた」というと、プレス付きの通訳は笑って、パスタはナポリが本場ですヨという。

 ナポリからローマへのほんの短い搭乗時間だが、その機内の雑誌を見ていたら、前の日からこだわっていたシチリアのパスタの記事が載っている。

 それによると、イタリアでは、200種類のパスタがあって、それぞれに200種類ぐらいの料理法があるから、40000種類ものパスタやスパゲッティ料理があることになる。したがって、365日を1食ずつパスタにしても10年で3650種、100年食べても36500種だから食べきれないことになる。

 日本にはソバについて随想があるように、ここではパスタについての書き物もずいぶんあるらしい。

 そんな記事を眺めているうちにナポリ発BM139便は午後3時35分にローマについた。さあ今夜はイタリア対アメリカ合衆国。天下のプロフェッショナルのイタリアは、学生出身者の多いアメリカを、どんなふうに料理するのか──、私の心は10年振りのローマに向かって浮き立つのだった。

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