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USAの頑張りとトリノ再訪、そしてベローナへの想い

 ファーストクラスのコンパートメントは、ゆったりとした6人がけだった。通路に近い、私の向かい側は、少年がひとりと、赤ちゃんづれの若い婦人、わたし側は2人ともジェントルメン。

 FS(Ferrovil dello Statoの略、イタリア国鉄)のミラノ中央駅15時5分発のIC(インター・シティ)653列車はロンバルジアの平原を東へ、ベローナへ向かっていた。

 1990年6月17日、ワールドカップは既に10日間、6月8日の開幕試合から21試合をすませ、この日のE組2試合とF組1試合で1次リーグの3分の2が終わることになっていた。そのうちのE組ベルギー(1勝)対ウルグアイ(1分け)を見るための、ベローナへの小さな旅だった。

 「ベローナまでですか」

 検札にきた車掌さんとのやりとりを聞いたらしく、隣の紳士が、きれいな英語で話しかけてくれる。

 「ワールドカップの試合を取材に行くのですが、ベローナは、はじめてなんです」と言うと、「ミラノと違って、ベローナは小さな町ですから、スタジアムも遠くはないし、市内の見物も、そんなに時間をかけなくてすみますヨ」などと彼は教え、自分はパドバに住んでいるといった。


 ナポリ→ローマ→ミラノ

 窓側の風景に目をやりながら、例によって手帳を出してメモをつける。つけながら、ここ3〜4日を反すうする。

 8月13日にマラドーナのアルゼンチンがナポリでソ連に勝ってB組リーグでやっと1勝(1敗)したのを見とどけ(前号参考)、14日はローマでA組のイタリアーアメリカ合衆国を観戦。イタリアは2勝目をあげて第2ラウンドへの進出をはやばやと決めたが、USAのがんばりが強く印象づけられた。

 第1戦でチェコに大敗したアメリカは守備をしっかり整え、技巧とスピードで幻惑しようとするイタリアの攻撃を体を張って防いだ。前半11分にジャンニーニのシュートで先制したイタリアはピアリがPKをポストに当てて失敗したほか、フェリのシュートも防がれ、後半はじめにカルネバーレに代えて投入したラッキーボーイのスキラッチも得点できなかった。ローマのスタジアムに集まったイタリアのサポーターは、得点の少ないイライラだけでなく68分にはマーリーの強いシュートをGKゼンガがはじき、とびこんでくる相手より一瞬早くフェリがゴールライン上でクリアするというスリルまで味わうことになった。

 わたしにはイタリアの技巧のすばらしさ、ボールを持ち、ボールを動かして、攻めこむ腕前とともにこのチームが、スキラッチを加えても、なお得点力に不満の残ること、そして、アメリカ代表の肉体的な資質の高さと、闘争心の強さをあらためて知った。

 15日はローマ空港発13時のAZ98便でミラノへ。1カ月借りているアパート「レジデンセ・ザーラ」へもどって、洗たくをすませ、17時からのチェコ−オーストリア(1-0)をテレビ観戦。そのあとジュゼッペ・メアッツァ・スタジアムで西ドイツがアラブ首長国連邦に大勝(5-1)するのをナマで見た。


 トリノへ日帰り

 つぎの日、16日はトリノでのブラジル−コスタリカのためにミラノ中央駅からトリノまで、やはりイタリアの国鉄で出かけた。トリノまでの145キロは、ミラノからプレスバスのサービスもあるのだが、ミラノの駅から列車で出かけるのを楽しみにしていたものだから、W杯取材にきている記者たちといっしょに出かけたのだった。このときの車両はコンパートメントではなく、4人掛けと2人掛けのイス。わたしは、アルゼンチン人でサッカー・マガジンのカメラマンのリカルドの隣りにすわり、向かい側はフリーのジャーナリスト大住良之氏と、読売の牛木素吉郎氏だった。駅で袋に入った“弁当”を買ったのだが、このセットは、チキンの照り焼きに、ソーセージ、野菜のサラダに、ヨーグルト、それにパンと、小カップの白ぶどう酒が付いていて、いささか、もてあますほどの量だった。

 リカルド・カメラマンは南米予選のブラジル対チリの最終戦で、チリのゴールキーパーが「負傷を自作自演」したとき、投げこまれた花火が、GKに当たっていない写真を公開した。イタリアからアルゼンチンに移住した父親もカメラマンで、いわば二代にわたってのフォトグラファー。

 花火が投げ込まれた瞬間に、シャッターを切った彼によって、GKロハスやチリ側の「演技」が明らかになった。カメラは真実を写すものと信じている彼は、今FIFAが認定する世界の10人のカメラマンのなかにはいっている。

 トリノは、これまでのスタジオ・コムナーレとは別に、全く新しい場所に、新しいスタジアムを作った。その7万収容の「スタジオ・デレ・アルピ」でブラジルがコスタリカを圧倒した。シュート数が前後半あわせて19本、左右からのクロスが24本、コーナーキックが13本という、圧倒的な攻勢のわりには得点が1点だったのは、いささか不思議でもある。相手のGKコネホが上手だったこともあるが、動きがスピーディーで、展開が広く大きいけれど、わたしには、わたしの好きな「ブラジルらしさ」に乏しいような気がした。

 キックオフが午後5時からだったので、ミラノへは、その日のうちにプレスバスで帰る。プレスバスにはテレビが設置され、カリャーリで午後9時キックオフのイングランド−オランダを画面に映す。調子がよくないと、ドライバー氏が運転しながら、頭上のスイッチを片手で操作してくれる。

 ミラノのメアッツァ・スタジアムのプレスセンターへ、思いのほか早く到着したので、この後半をプレスセンターのテレビで見ることができた。

 イングランドの積極的な攻めがつづき、5回もオランダの守りのウラへはいりこむチャンスがあった。ストライカーのリネカーが2度ゴールエリアに突っ込むというエキサイティングなシーンをつくりながら、一本は左へそらし、一本は足が届かなかった。

 結局0-0だったが、わたしはイングランドの気力の充実がたいへん頼もしくみえたし、ガスコインというGI刈りのMFが役に立つプレーヤーに思えた。


 ウディネにも行きたいが

 ミラノの西方153キロのトリノに対し、ベローナは、ミラノの東148キロ、ほぼ同じくらいの距離にある。

 サッカー人にはトリノは、ユベントスとトリノのふたつの伝統あるクラブがあって、よく知られている。わたし自身も1980年の欧州選手権の時に滞在したこともあるが、ベローナは、これまで訪れるチャンスがなかったから、こんどの大会には、ぜひ、と思っていた。

 この日(6月17日)はF組のもうひとつの試合がウディネ(韓国−スペイン)で21時から、F組のアイルランド−エジプトが17時からパレルモで予定されていて、はじめの計画では、アジア代表の韓国のゲームを第1候補にしていた。

 ウディネという町はベローナよりも、ベネチアよりも、まだ東にあって、ユーゴとの国境に近く、それだけでも旅情をそそるし、また1956年の冬季オリンピックでスキーの猪谷千春さんが銀メダルを獲得したコルチナ・ダンベッツォも遠くはない。

 それにまた、ヘミングウェイの小説「武器よさらば」の主人公が第1次大戦で負傷するのも、ウディネの近くの山岳地帯だったと記憶している。そんなことでウディネは訪ねたい会場だったのだが、時間的な問題もあって、この日はベローナに向かうことにしたのだった。


 良くなった安全性

 10年前の1980年、ヨーロッパ選手権の時にイタリアへやってきたときは、ひとりで鉄道に乗るなどは、止めた方がいいと旅行会社から教えられていた。ユーレイルパスを使うにしても、切符を買うための出札での行列、あるいは駅への出入りの混雑の中で、スリや置引などの被害にあう率が、あまりにも大きいから、ということだった。

 実際、わたしも、そのときローマで銀行から出てきて、しばらく道を歩いていると、知らぬ間にトマトケチャップが上衣にかかっていたことがあった。バール(スナック)にとびこんで自分でふきとったが、上衣が汚れていると道路の上で注意をして、ぬぐいましょうと親切に上衣を脱がしてくれて、その間に財布を抜き取る盗みのテクニックのひとつだと聞いた。

 ミラノの中央駅にもローマの終着駅にも、近くにはジプシーの子供たちがいて、もの乞いの格好でそばによってきて、ときには盗みもする。たいてい2,3人で、新聞紙を手にし、こちらの顔を見ながらそばによって、なにかくれ、といいながら、新聞を広げたその下で、当方のバッグのチャックをはずしたり止め金をはずしたりする。

 そうした例はあっても、少なくとも駅の構内は、警察官が常に巡回しているので、安全ということでは、10年前の比ではない。

 ワールドカップという世界の目が集まる大きな催しを成功させるということ、イタリア経済が良くなるということのふたつが、ひとり旅を多少、気軽にしてくれているのかも知れない。


 野外オペラ、ゲーテ、シェークスピア

 メモをつけ終わり、持参のミネラルウォーターを飲んでベローナにおもいをはせる。少年のころ親しんだ坪内逍遥訳のシェークスピア全集にあった「ベローナの二紳士」や「ロミオとジュリエット」の舞台となった町、中世の大都市ミラノと港町ベネチアからほぼ等距離にある交通の要衝。北の空を限るアルプスの山々をこえ、オーストリアのインスプルックをへて、中部ヨーロッパへの幹線道路もベローナに通じる。

 そういえば、文豪ゲーテが憧れのイタリアへはいったのも、ブレンネル峠をこえて、ベローナをまずめざしたのだった。ゲーテは「イタリア紀行」のなかで、1786年9月16日、ベローナの円形劇場について書き記している。

 そして、この古代ローマの円形劇場はいまも「アレーナ・デ・ベローナ」と称して、夏には、オペラやバレエや音楽会などの催しが行われる。舞台を見おろす2万人収容の巨大な石の劇場での歌劇アイーダやトスカの野外オペラは日本にも紹介され、その壮観を味わうファンもふえている。

 そんなオペラやシェークスピア劇場で知られるベローナだが、スポーツ、とくにサッカーも無縁ではない。1903年創立のエラス・ベローナ・クラブが1部リーグにいて、このシーズンは16位だったが、ウルグアイのグチエレスなどの人気プレーヤーもいる。

 アーディジェ川ぞいに古くから発達した町は経済的にも豊かで、市の人口26万、地域一帯79万人、ブドウ酒、靴、ウエア、大理石などの産物が有名で、こうした経済的なバックのおかげで、こんどのW杯も6月12日から26日までの間、1次リーグ4試合と第2ラウンドの1試合を誘致する。1948年につくられた「ベンテゴディ・スタジアム」は屋根つき、全シートに改装されている。

 ゲーテとシェークスピアと、野外オペラと30万人に満たない地方の中都市が長い文化の蓄積を持ち、劇作の舞台となっている、その歴史の重み、そして、そこの新しい“円形劇場”でワールドカップを見ることができる──。

 インター・シティの快適な車内のなかで、わたしはベローナと試合への思いで、心が昂まってくるのを感じるのだった。

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