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余裕の西ドイツと大ポカ、そして回想のステアウア

 西ドイツ・サポーターは余裕たっぷり

 「オーレ、オ・レ、オ・レ、オ・レー」もあれば歌劇アイーダの「兵士の行進」もあった。トランペットも高らかに鳴っていた。

 すでに2勝をあげ、第2ラウンドへの進出がきまっている西ドイツ、サポーターたちは陽気で余裕たっぷりだった。

 1990年6月19日、ミラノ市のジュゼッペ・メアッツァ・スタジアム。午後5時キックオフの1次リーグD組の第3戦、西ドイツ−コロンビア。キックオフには、まだ時間があった。

 イタリアW杯もすでに12日目、1次リーグは前日にB組が終了し、この日はD組のもうひとつの組み合わせ、ユーゴーアラブ首長国連邦がボローニャで、そして午後9時から、A組のイタリアーチェコがローマで、オーストリアーアメリカがフィレンツェで予定されていた。

 いわば大会は前半の一区切りにさしかかっていた。


 旅にポカはつきものだが・・・

 ミラノを本拠にしてアパートを借り、見たいゲームに出かけるのが、こんどのW杯の(わたしの)プランだから、ミラノのスタジアムは、もう4度目だ。その間、12日にパレルモ、13日にナポリ、14日にローマ、15日はミラノ、16日はトリノ、そして17日はベローナと、飛行機や鉄道やバスで、新しい町、旧知の市を訪れた。

 開幕戦でのアルゼンチンの不調に、いささか心は暗かったのだが、イタリアやブラジルや西ドイツのプレーをみて、少しW杯の気分になってきた。そして17日はベルギー代表の会心のゲームで、さらに気持ちが昂まっていた。

 周囲に飛び交うイタリア語の響きになれ、ミラノ中央駅の出入りが体になじんでくると旅の調子もあがる。

 しかし、そんなときは、たいていポカもでる。

 ベローナの試合の翌日、18日鉄道でミラノへ帰った(前号掲載)のはよかったが、この日は、どうも、心が弾みすぎていたらしい。次の目的地ナポリへゆくのに、いったnアパートへもどり、たまった洗たくをし、タクシーに乗って飛行場へ向かったのはよいが、ミラノ空港についてから、記者証を持っていないのに気がついた。

 アパートを出るときには忘れものチェックとして、いつも口に出して「××を持ったか」、「××は」、などというのに、この日ばかりは大事な記者証を置き忘れていた。

 空港からタクシーですっとんで帰り、部屋中をさがしたが、いつもぶらさげておく上衣かけに、かかっていない。表に待たせていたタクシーに、時間がないからと(空港ーアパートを往復するつもりだったのに)断って、さて部屋にもどるときに思い出したのが、テレビの上、それを見付けたときは、われながら、ホッとするより、なさけなかった。


 アルゼンチンの苦戦をテレビ観戦

 18日のベローナのホテルの朝食がとてもよかった。トマトジュースが濃厚で塩分が少なく、ドイツ・パンとチーズとジャムと果物が、わたしの好みどおりだったし紅茶のトワイニングも久しぶりにおいしかった。

 そのあとのタクシーによる10分の小観光もまたオールドタウンで、ロミオとジュリエットのころを偲ぶことが出来た。しかも、帰りの車中でクビジャス(元ペルー代表)に会い(先月号掲載)、松本育夫氏とも話す──というふうに、まことに盛りだくさんで心楽しい午前中だった、そんなことで、ちょっと浮き浮きしていた。しかもアパートで時間があるとみて洗たくしたりしたものだから──最も大切な記者証を忘れて出るというポカをしたのだろう。

 ナポリのホテル、これも、奮発して超高級の「ベスビオ」をとっておいたのを、キャンセルの電話をかけ、ブツブツと自分を呪いながらタクシーに乗って試合のないメアッツァ競技場へ走らせ、その隣のプレス・センターのテレビで午後9時からのアルゼンチンールーマニアの試合を見るハメになった。

 ナポリへ行きたかったのは、悪くすると、マラドーナのこの大会最後の試合になるかもしれなかったこと、そしてまた、ナマのルーマニアを一度見ておきたかったからだ。


 ルーマニアとステアウア・ブカレスト

 ルーマニアという国は、ヨーロッパを中央から東へ流れるドナウ河の下流にあって、わたしたち日本からは“遠い”国のひとつだ。日本代表チームは東欧遠征で何回か訪れているが、ここのサッカーそのものも、東欧のなかでは、ハンガリーやポーランド、あるいはユーゴといった国国にくらべると、わたしにはなじみはうすかったが、1986年12月のトヨタ杯で欧州チャンピオンズ・カップの勝者として来日したステアウア・ブカレストで一気に興味が湧いた。

 このときのトヨタ杯は、ちょうどわたしが「ユニセフ(国連児童基金)支援」のための企画で、マラドーナと南米選抜チームを招いて日本リーグ選抜との試合を実現させるために動いていたころで、試合の最中にも、南米連盟のレオス会長と言葉をかわしたりして、十分に(いつものように)試合を見つめることはできなかったが、それでも、南米の名門リバープレートよりも、ステアウアの方が魅力的だったのを覚えている。ことに右サイドをボールを持って出るラカトシュが、長身で柔らかく、一目で気に入ってしまった。


 ルーマニアの大革命

 このステアウア・ブカレストが来日するとき、ドルの関係で、民間のエアーラインを使わずに、ルーマニアの軍用機に乗ってくるとか、ホテルへ支払うよりも、大使館に泊まって経費を節約するなどという話があって、ルーマニアの経済が苦しいとは聞かされたが・・・・・・。

 チャウシェスク大統領の自主路線が、実は長い間の権力の座にあって「チャウシェスク王朝」とまでいわれたことは、昨年からのルーマニアの変動でやっと知ったのだった。

 サッカーの面でも、ディナモ・ブカレストがチャウシェスクのお気に入りチームで、このチームにはいろんな便宜が払われていたとか、八百長試合があった、などという話まであとになって語られるのだから、独裁国家というものの実情は、外からはわからないものだ。

 ただルーマニアだけでなくヨーロッパは昔から民族が入りまじり、それが必ずしも国境とは一致しなくて、いろんな問題をかかえていた。とくにいまのルーマニアの西北部のティミショアラは、ハンガリー人が多く、ラテン系のルーマニア人と、マジャール系のハンガリー人とは生活様式や習慣なども違っているらしく、まして、大戦後、ハンガリーから、ルーマニアへ移されたという意識が強く、対立意識がくすぶっていた。
 
 東欧をゆるがし、ひいてはヨーロッパに大きな影響をもたらしたルーマニア革命の発端は、このティミショアラからだった。特別警察の弾圧も、あるいは、マジャール人相手ということで特に手ひどく、その反動が、ルーマニア全土を刺激することになったのかも知れない。


 古代ローマの子孫達

 プレス・センターのテレビ室は、試合のはじまる前にはいっぱいになった。わたしははやくからプレス係の女性に頼んで、バッグもおいていたから、いちばんの席でみた。

 キックオフから、しばらくしてマラドーナの絶妙のパスが、カニーヒアの前に落ち、走り抜けてノーマークのカニーヒアが右足でけった。ショートバウンドを上手く押さえたようにみえたが方向が右へそれた。

 どうしても勝ちたいアルゼンチンは、ソ連戦で少しあがった調子をそのままに、持ってきているのかと思ったが、前半にマラドーナが再三ファウルで倒され、左足の痛みからか、動きが鈍ると、アルゼンチンの選手のすべてがガタッと落ちこんでしまう。

 ことに86年の(地味な)殊勲者であったバチスタが30分ばかりたつと、まったく疲れ果てたという格好になってしまった。

 ルーマニアの方は、ハジの調子が少しずつよくなる(ちょうどアルゼンチンの動きが鈍る)とボールの回わりはスムースになる。そうでなくてもラカトシュにボールが渡ると、そこからチャンスを作れる、という自信があるから、展開はしだいにルーマニア側に傾き出す。

 ラカトシュはトヨタ杯のときの早さと柔らかさに、こんどは強さも加わっているから、まったく相手のディフェンダーには難しい になっている。

 そしれにしても、前半はじめの、ミッドフィールドでのつぶし合いでも、ルーマニアは負けず、ボールを取れば、みごとなステップで相手をかわす。

 古代ローマの植民が根をおろした地域としてローマニアと呼んだ──まさにラテンの流れをくむといわれるとおりのスタイルがサッカーにあらわれていた。

 そして面白いことに彼らが反則をくりかえしたアルゼンチンのマラドーナもイタリア系、つまりローマニアの流れをひく。スラブの中のラテンと新大陸のラテンが、ナポリを舞台でサッカーで戦う──イタリアという国は、まことに不思議な演出家でもある。

 アルゼンチンは後半にマラドーナの見事なカーブのCKをモンソンが頭で合わせて先行し、ルーマニアはラカトシュのクロスを2つのヘディングで同点ゴールにした。どうやらマラドーナの“最後の試合”は第2ラウンドへ持ちこされそうな気配となった。

 この組の2位となったルーマニアも進出するが、国内の情勢にまだ不安はあるにして、この日のルーマニアのイキイキとしたプレーに自由を得た彼らの“精神の輝き”を見る思いがした。

 スタンドにすわって、前日のテレビ観戦の回想をするわたしは、ドイツ人の大かん声で現実にかえる。

 西ドイツとコロンビアの両チームがはいってきた。プレス席へまわってきたメモには、観衆は72,510人、入場料は39億6614万リラとある。

 コロンビア代表も、わたしには、前の年のトヨタ杯でACミランと対戦した「ナシオナル・メデジン」で知ったプレーヤーが何人かいるし、監督も’87年南米選手権で取材したことがある。

 型どおりのセレモニー、まず西ドイツ国家、つづいてコロンビアの国歌が吹奏される。

 左ゴールうしろから、コロンビア国家を唱和する歌声があがると、バックスタンドの左隅からも歌われた。

 場内いっぱいのドイツ人サポーターから、それに対して拍手が起こった。

 “今日はいいぞ”スタジアムにいて、ゲームをナマでみる興奮に、わたしは身ぶるいするのだった。

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