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驚きのコスタリカGKコネホとミルチノビッチの功績

 第二次ラウンドKOシステムの緊張

 チェコスロバキアの国歌に続いてコスタリカの国歌が吹奏された。マーチ(行進曲)風のメロディーに対して軍隊式に胸に手をあてて、足を開いて“不動の姿勢”をとるコスタリカのイレブンを見おろしながら、わたしは、彼らの心情を思った。

 1990年6月23日午後8時50分、ワールドカップ・イタリア大会は、第2次ラウンドにはいって、1次リーグの24チームが16にしぼられ、その16カ国による「ノックアウト・システム」の初日。

 この日のもうひとつの試合、ナポリでのカメルーン対コロンビア(午後5時開始)はカメルーンが勝っていた。

 6月21日に、南イタリア・シチリア島パレルモでの1次リーグF組アイルランド対オランダ(1-1)を取材したわたしは、22日はパレルモに滞在し、23日の早朝パレルモからいったん北イタリアのミラノにもどり、ミラノから、バリへ飛んできた。

 ゲームの中身からいけば、ミラやマカナキー、オマン・ビイクなどのいるカメルーンとGKイギータやバルデラマらのコロンビアとの勝負も、魅力いっぱいだが、その地中海側のナポリの逆サイド、イタリア半島の東側のバリという、私にとっての「テラ・インコグニタ(未知の土地)」への興味を捨てることはできなかった。

 バリについたのが、午後1時、空港からバスとタクシーを乗りついでホテルへ、それから、この試合のキックオフまでの間に、食事をし、ナポリの試合をテレビ観戦し、というのだから、未知の土地へ来た、といっても、実際は、町を見てまわる時間はほとんどない(翌日は、ミラノへとって返して、西ドイツ対オランダの大一番をナマでみる予定)。それでも、この土地を踏みサン・ニコラ寺院にまつわる話をきいたりすると、あらためて南イタリアと東方世界とのかかわりに新たな感慨が湧くのだった。


 GKコネホのすばらしさ

 もっとも“土地”だけに魅かれてくるわけではない、この日の試合でコスタリカがどんな戦いをみせるかは大きな楽しみだった。

 コスタリカ代表チームは一次リーグのC組で
 ▽1-0 スコットランド
 ▽0-1 ブラジル
 ▽2-1 スウェーデン
と、このグループの1番弱いチームという予想を覆して、堂々と2位で1次リーグを突破した。

 相手の攻めに対してペナルティー・エリアに6〜7人が後退して防ぐのは、強者に対する戦術として別に目新しいことではないが、GKコネホの非凡な判断と、バネを生かしたみごとなセービングと高いボールのキャッチングは、この守りの成功に大きな力となった。

 相手のシュートに対するコネホの判断のすばらしさは、3試合の2失点の内容を見ても、@ブラジル戦の1点は、ブラジルのミューレルのボレーシュートが味方の足にあたったもの(オウン・ゴール)でありAスウェーデン戦の1点は、FKが味方のカベ(足の間)を抜けて左すみへきたのを、いったん防いだリバウンドをきめられた。その2度目のシュートに対しても、コネホはとびついて、手にあてているのだった。

 わたしはブラジル戦をナマでみながら、こういうゴールキーパーを崩すためには@完全にキーパーの逆をつく(判断とは逆へける)か、タイミングを狂わせるストライカーがいるかAアプローチのパスで(たとえばクロスを折りかえすとか)キーパーのポジションなり体勢をくずすかBキーパーのセービングやポストなどのリバウンドをいつも狙っているタイプの選手(たとえばスキラッチとか、昔の長沼健さんのような)がいないと、得点はたいへんだろうと考えもした。


 W杯2度目の放浪監督

 守るだけでは1次リーグは突破できない、トップにいる小柄なストライカーのC・ハラをはじめカジャッソ、ゴメス、マルチェナ、ゴンサレス、後半登場するメドフォード、そして、ときおり前進するリベロのフローレスたちは威力があり、数がそろうと意表をつく動きが得点コースを生み出す。

 このチームの監督がベリーボール・ミルチノビッチ、通称ボラと呼ばれるユーゴ人だ。

 兄のミロス・ミルチノビッチは1950年代にユーゴ代表でW杯に出場。1986年にはユーゴ代表の監督にもなっている。弟のボラは、ユーゴのユース代表、パルチザン・ベオグラードの選手として働き、のちにフランスへ移ってモナコとニースでプレー。

 1972年にメキシコに渡って、ウニベルシダード・アウトノマ・デ・メヒコ(UNAM)で活躍し、1977年から同クラブの監督となってリーグ優勝、コンカカフ(中南米・カリブ海地域)・カップの優勝から、インターアメリカ(中南米対米)・カップ優勝といったタイトルをクラブにもたらし、その実績を買われて1986年ワードカップに開催国メキシコ代表チームの監督をつとめ、準々決勝進出という同国での歴史的な成績を納めた。

 わたしは、このときのメキシコ代表チームが試合直前アステカのフィールドの外側で、ダッシュやスワープをくりかえすのをみながら、ユーゴ人監督の手腕を注目していたのを思い出す。

 1987年のコパ・アメリカを取材にいったとき、ブエノスアイレスの空港で、ミルチノビッチ監督に会った。メキシコ代表の監督で成果をあげたが、世界でさらに認められるためには、アルゼンチンのクラブで働いてみたいということだった。

 そんな彼が、90年3月5日にそれまでのマルビン・ロドリゲスに代わって、コスタリカ代表チームの監督になった。ロドリゲス監督は地域予選突破を成功させたのだが、そのあとのトレーニングの成果がはかばかしくなく、マールボロ国際トーナメントでの不成績のために解任されたらしい。

 人口290万人、登録プレーヤー1万5000人という小国コスタリカでは、サッカーというトップ・プレーヤーの給料は月に10万円〜20万円、平均的な選手は家計を助けるためにサッカーのほかに副業を持つのが普通──それでいて、熱狂的な国民の支持をうける代表チーム。

 あのノーベル平和賞の受賞者アリアス大統領が地域予選のとき、ハーフタイムに選手を激励したというエピソードもあるところだから、代表チーム監督は、僅かなミスも許されないという。


 痛い!!コネホ不在

 そんな、わたしの回想を破って、ジーグフリート・キルシェン、東ドイツ人主審の笛でゲームが開始される。

 チェコはA組第2位。▽5-1 米国 ▽1-0 オーストリア ▽0-2 イタリアの成績だが、この組の最終戦の直前になってイタリアはチェコに破れるかも知れないし、負けなくても引き分ければ、得失点差で2位になる、と、第2次ラウンドの1回戦はバリ、ということで、この日のバリの入場券が売れた──つまり、イタリアのファンを、心配させるほどチェコは強いと見られていたし、実際の試合内容も互角だった。

 そのチェコの誇る長身のストライカー、スクラビーが左CKをゴールキーパーと競り合い、わずかに頭をかすめて落ちたのを、ラピタがダイレクトシュートした。ショートバウンドを押さえることができずに、バーをこえたが、まずこの9分のピンチで、私のコスタリカへの期待が少し小さくなる。

 それは名手コネホが、1次リーグの最終戦で負傷して欠場していること、バランテスという交代のゴールキーパーが、このスクラビーとの競り合いでフィスティングがボールに届かなかったということで、このあとのクロスに対する守りが(コネホとは)違って消極的になるのではないかということだった。

 その心配は右サイドのモラブチクからのクロスをスクラビーがみごとなヘディングで叩きこんだチェコの1点目となってあらわれる。長身のプレーヤーの多いチェコに対して身長で劣る味方のDF人を助けるには、ゴールキーパーのハイクロスに対するとび出しとジャンプが有効なのだが、最初のクロスを失敗したバランテスには、ちょっとむずかしくなったらしい。


 チェコのスクラビー

 後半に入って10分すぎに、コスタリカが同点ゴール、右からのラミレスのFKをゴンサレスが、相手の前でとる文句なしのヘディングシュートでゴールし、そのあとしばらく攻めて、サポーターを喜ばせる。例によって後半からはいったメドフォードの速さが楽しいのだが、62分(後半17分)再びスクラビーのヘディングが、コスタリカのゴールネットにとびこむ。

 チェコの右からの攻めをいったん防いだのをクノフリチェクが、また拾って中へ。これをDFが再度ヘッドでクリアすると、そのボールをチェコのモラブチクがヘディングでゴールの前へ送り、スクラビーが自分をマークしている相手の前へ頭を突きだしてヘディングした。クロスに対しとび出すにはヘディングの応酬だったからタイミングがむずかしくもしとれるとすれば“神様”のコネホだけだったろう。

 1-2とリードされてもコスタリカの戦意は衰えず、守るべきを守り、攻めにも出て、ときにチェコをひやりとさせる。しかし、暑さとコスタリカの意外の抵抗に手こずったチェコに3点目が生まれて、どうやら勝負はきまったのが76分。

 22〜23メートルのFKを左利きクビクがスローカーブのシュートで右上へきめたのだが、FKの原因はハシュクがドリブルで突破してきたのをマルチェナがファウルしたもの。ちょっと膠着(こうちゃく)状態にあったのをハシュクが敢行したムリなドリブルがきいた。

 この日のチェコは、暑さのためか、全体にはそれほどいい動きではなかったが、ボールを持ったものが、ときおり、ムリをしなくてはならぬときにムリをし、ゴール前でスクラビーをはじめ長身プレーヤーを生かした。

 そのスクラビーは81分にも右CKをヘディングできめてハットトリックで4-1とし、大会での個人得点を5に伸ばした。


 短期の強化も長期の強化も

 交代選手を送り出すときには、図画を描いて作戦をのみこませる。綿密な指導をするミルチノビッチ監督も、コネホの欠場という大きなハンデはカバーできず、結果は1-4の大差となったが、わずか3カ月で、チームをまとめ、イングランドと並ぶサッカーの老舗(しにせ)スコットランドを倒し、“北方の巨人”スウェーデンに逆転勝ちした彼の功績は消えることはあるまい。

 1986年にメキシコ代表を率いたときは準備に十分な期間もあり、またチームのなかには自分がウニベルシダード(UNAM)で育てたウーゴ・サンチェスなどがいた利点もあった。いわばメキシコでは長期の強化で成功し、コスタリカでは短期の戦力アップにも効果をあげた。

 母国語のセルボ・クロアチア語はもちろんロシア語、スペイン語、英語を話す彼は、英語圏の記者にも評判がよく、また選手には、いつも自分の子供のように気を配るといわれている。

 「得点はゴールキーパーのミス?
わたしは、そうは思わない。チェコはすべての点でまさっていた。

 私は1次リーグを突破できると思っていなかったから、ここまで進んで満足している。それはもちろん、プレーヤーが全力をつくしたからだ。きょうの試合でも彼らは全てを出してくれた。

 この大会での経験は、次のバルセロナ・オリンピック、次のアメリカでのW杯に、わたしたちの大きなプラスになると思う。

 イタリアでのすばらしい大会に参加できた喜びを胸に、われわれはすぐ帰国し、練習をはじめる予定だ。

 この大会が、最後まで、このようにすばらしい大会であるよう祈る。」

 試合後に、感想を語るミルチノビッチ監督を見ながらサッカーの世界の人材の豊富さをあらためて思うのだった。

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